さり気ない優しさを一瞬の行動で示した子


年末の大掃除で、昔、研修の時にもらったプリントが出てきました。よほど残しておきたいと思わないかぎり、即日、ゴミ箱行きでした。ですから、残しておくほどなので、おタカラかなと思いました。ちらっと見て、思い出しました。紹介します。


『授業中だった。元気者の女の子が急に立ち上がり、窓際へ行き、水の入った花瓶を持って、「先生、水を替えてきます」と言って歩き出した。そして、自分の席の前に来た時、突然つまずいた。そして、座席に座っていた大人しい女の子のスカートに、花瓶の水を全部こぼしてしまった。水をこぼした元気者の彼女は、その子に必死に謝った。花瓶の水をかけられた大人しい女の子は、黙って泣いていた。だが、その子は水をかけられて泣いていたのではなかった。その子はトイレをガマンしきれず、おしっこをもらしたので泣いていたのだ。でも、みんなは知らなかった。


そのことに1人だけ気づいた後ろの席の彼女は、すぐ行動にうつした。その子のスカートに、実は花瓶の水をわざとかけたのだった。おしっこをもらしたことを周りのみんなに気づかれないようにするためだ。元気者の彼女は自分を悪者にしてまで、その子をかばったのである。 周りのみんなからは「授業中に何やってんだよ」などと非難の声を浴びたが、ひと言もその事実を語らなかった。先生も後になってから、おしっこをもらした子から、その話を聞いたそうだ。』


以上です。これこそ0,1秒の瞬間的な対応ですね。と言うより、柔軟で大胆かつ冷静な動きと言えます。おもらし→花瓶の水→カモフラージュ、私には到底思いつきません。いわゆる「とっさの危機管理対応」のお手本です。それを子どもがやったというところに、驚かされました。級友のおもらしのことを、ずぅっと絶対に話さないというところがステキです。私は、その子を尊敬します。(尊敬するのに年上も年下もありません)


私よりずっと素早く、とっさの対応をしてくれた子


私の担任していたクラスでも、私よりずっと「とっさの対応」がすばらしかった子がいました。担任として恥ずかしいくらいです。バスに乗っている時なら、子どもらの顔色を見回し、こちらも心の準備をしています。しかし、教室で、授業中に、とっさにこんな素早い対処は、私にはできません。高学年です。男の子が授業中、急に嘔吐してしまいました。私は「たいへんや」と思いました。その一瞬です。男の子が嘔吐するのと、ほぼ同時に1人の女の子が動いていました。教室に置いてあった新聞か、トイレットペーパーか、自分の雑巾かは、忘れましたが、走って、それで、嘔吐物の処理をサッと始めたのです。それを見た他の子が、急いでビニル袋を持って行きました。私は、嘔吐した子について、「誰か保健室に連れて行ったってや」と言っただけでした。その間に、嘔吐物の処理はてきぱきとなされ、あっという間に終わっていました。見事な早技でした。いっしょに手伝った子も数人いました。何ひとつ不平も言わず、イヤな顔もせず、黙々と片付けて‥私も他の子どもたちも、「ありがとう」と言ったような気がしますが‥。何事もなかったかのように、えらぶらない彼女のけだかい横顔は、忘れられません。私なんか足元にも及ばない、立派な動きでした。「あ・うん」の呼吸の、自然な連携プレーにも、目を見張りました。昭和の頃のエピソードです。脱帽です。(今はおう吐物の処理は、子どもにさせられないので、まさに「伝説」です)


校長先生の「ひと言」は大きい


校長先生にも、いろいろなタイプの校長先生がおられます。私も10人の校長先生と、ご一緒に仕事をさせていただきました。


新任の頃です。「好きなようにやれよ。責任はワシがとったるさかい」とおっしゃる校長先生でした。そう言われると、どの担任も、かえって好き勝手にはできません。みんな、報告・連絡・相談、いわゆる「ほうれんそう」を大事にしたのを覚えています。豪快な校長先生でした。私には、そんなセリフを言う度胸はありません。退職される3月31日、送別会の後、校長先生は学校に戻られました。「夜の12時までは、ワシの責任があるんや」まさに「もののふ」の魂の持ち主でした。(問題児の私は、何度救ってもらったことか)


「全校集会はワシの授業や。職員会議の話も同じやで」と言われる校長先生もおられました。ですから、朝の打ち合わせでは、短くても教職員みんながハッとすることを、職員会議では、教育の外の世界の新鮮な話題をお話しされる校長先生でした。今、思うと、職員みんなの反応を楽しみながら、私たちに、「広い視野」で子どもと教育を見ることの大切さを教えてくださったようにも思います。5本の指の根元(手のひら)に小便をかけた孫悟空みたいな、ちっぽけな私たちに対して、孫悟空が越えられなかった、でっかいおシャカ様のような存在でした。


学級だよりと同じように、「職員室だより」を書かれる校長先生もおられます。校長先生の書いておられる「職員室だより」って、興味しんしんですよね。ちらっと教えてもらいましたので、紹介します。「職員室だより」の内容は、おおよそ次のとおり、とのことです。


・今日、指導してほしいこと。
・日々の取り組みの中で、気をつけたいこと。
・教師として心がけたいこと。
・役に立つ教材など。
・教育をとりまく情勢や話題。


これらの中から全校の先生方に伝えたいことを、リアルタイムに毎日書いている校長先生がおられるということ、私はびっくりしました。私のお気楽なブログとは、次元が違います。並大抵のことではできません。後で読み返せるようにとの配慮には、頭が下がります。


以上、全然ちがうタイプの校長先生を3人紹介しました。元中学校長のお話を伺う中で、この3人に共通することが1つあることに気づきました。それは、先生方1人ひとりを見る「まなざし」です。管理職としての管理的な視線で、日々、先生方に接することがないのです。その逆で、先生方一人ひとりに対して、共感的な言葉を必ずかけておられたことです。クラスがしんどい先生には、その「労をねぎらう温かさ」を、3人とも持っておられました。


その正反対のエピソードをひとつ紹介します。ある時、朝早く出勤した先生方が雪どけをしていた時、後から出勤して来た校長先生が、「おはよう」とだけ言って、正面玄関へ入って行かれました。私は、その場で学年主任の先生方に、「なんで、校長先生は、ひと言、ありがとうって言ってくれはらへんの!」と言われました。(そんなぁ、私は、ただのフリーの生徒指導なんですけど‥)つまり、子どもたちが担任にほめてほしいのと同じで、先生方も校長先生に「ひと言」でいいから心ある言葉をかけてほしい、これが人情なのです。同僚の私の「ありがとう」では物足りないのでしょう。


どうか、校長先生方、見ていて歯がゆいとは思いますが、教職員1人ひとりに、特にしんどい思いをしている担任にこそ、ぬくもりのある共感的な「ひと言」をかけてあげてください。人は、それだけで、元気が出るのです。人は、それだけで、自分は独りぼっちじゃないんだと安心できるのです。


鳥取県:国道9号線沿いの人たちの「まごころ」


2011年1月9日(日)朝日新聞1面「大雪ぬくもり国道 動けぬ車 手のひらいっぱいのもてなし」の記事を概略だけ紹介します。(  )は私なりの補足です。


『元日の朝。‥鳥取県琴浦町‥(看板屋さん)大みそかから降り続いた雪は、もう腰の高さまで積もっていた。‥米子市‥89cmの積雪‥トントントン。‥女性が真っ青な顔で立っていた。「すみませんが、トイレを貸してもらえませんか」‥「こらぁ大変だ」‥見たこともない車列に驚いた。仕事場のトイレを、みんなに使ってもらおう。そう決めた。人口1万9千人の琴浦町の人たちにとって、いつもと違うお正月が始まった。‥(大みそか~元日、吹雪の国道9号線)約25kmで車1千台が立ち往生した。‥1m四方ほどの白いベニヤ板に赤いテープで「トイレ→」と書いた看板をつくり、国道脇と自宅前に立てかけた。次々と人がやってきた。赤ちゃんを連れた若い女性は、ミルク用のお湯が欲しいと小さなポットを持ってやってきた。‥毛布を持ち出し、お湯と一緒に手渡した。女性は何度も頭を下げて車に戻った。‥(パン屋さん) 「ありったけの米を炊いてくれ」公民館から大きな釜を2つ借り、自宅にあった1俵半の米を全部炊いた。近所の女性に役場に集まってもらっておにぎりをつくった。‥パンを運ぶトレーで、おにぎりを配り歩いた。「目の前で困ってる人がいたら‥。お互い様じゃけね」日が落ちてからも、首に懐中電灯を下げ、「バナナいりませんか」と声を掛けて歩いた人がいた。神戸から帰省中。16年前、阪神大震災にあった。‥「寒さ、空腹、不安を感じている人がいるのは、あの時と同じ。自分だけぬくぬくとはできへん」(まんじゅう屋さんは、1200個のまんじゅうを配りました)‥車列に向き合い続けた1日。「ああ、そういえば今日はおせちを食べなければならない日だった」‥夜になって思い出した‥』


以上、概略です。仕事場のトイレを使ってもらうため、看板を作って、2か所に立てる。赤ちゃんのために、家の毛布を手渡す。公民館の釜で、家の1俵半の米を全部炊く。近所の女性が役場に集まり、おにぎりを握って配る。夜も、首に懐中電灯を下げ、バナナを配る。売り物1200個のまんじゅうを配る。そして、おせちも食べずに車列に向き合い続けた1日。すべて、大雪の寒い外での活動です。なかなかできることではありません。ニュースでは、ガソリンも配っておられたと聞きました。立ち往生した1000台の車の人たちを、どれほど勇気づけたことでしょう。鳥取県の人たちの懸命な活動、その「まごころ」に心を温かくさせてもらいました。


続編です。


福岡市立石丸小学校4年2組の取り組み


2011年1月30日(日)朝日新聞30面に「ボクらも助ける 福岡の小学生が手紙」という記事が載っていました。


この年末年始、国道9号線で約1千台が立ち往生し、鳥取県琴浦町周辺のみなさんが手を差し伸べたことは、私たちの記憶にも新しいことです。その記事を読んだ先生が、担任する小学校4年生のクラスの子どもたち32人に紹介した取り組みの記事でした。名前など抜粋しながら紹介させてください。


『‥3学期最初の国語の授業。鳥取県の場所や気候を学びながら記事を読んだ。「すごい」「優しい」と子どもたち。先生は「その気持ちを手紙にしてみましょう」と話しかけた。「考えるだけでなく、行動に移す大切さを知ってほしい」からだ。(こまっている人を助ける人は、すごくかっこいい)(今のごじせい、不きょうや、こようの問題がある中、こんなニュースはいいな)率直な思いがつづられた。先生は「琴浦町の人たちの話を読み、社会とのつながりや、こんな大人になりたいという将来像を意識し始めたようです」と話す。(人との助け合いができる日本にしたいです)と書いた(男子)は「自分がしてもらったらうれしいことをしたい」(女子は)「困っている人がいたら、何ができるか考えたい」と記者に答えてくれた。もし近所で琴浦町のような事故が起きたらどうする?「お母さんに頼んで、千個は無理だけど100個くらいおにぎりを差し入れたい」「毛布やカイロを配りたい」子どもたちの手紙は記者に託され、琴浦町の住民に届けた。「こんなにかわいいお手紙を‥。こちらが泣いてしまいそうです」(看板工房屋さん)は手紙を手にして、目を赤くした。手紙や電話も十数件届いた。


他人のことなど知らんふりする最近の世の中‥頭が下がる思いです


記事を読んで涙が止まりませんでした。・・記事には出てこなかった大勢の琴浦町民の方々がおられたと察します


(看板工房屋さん)は石丸小4年2組に返事を出した。「困っている人がいたら自然に手を差し伸べられる人に育ってください」との思いを込めて。』


(看板工房屋さん)の書いた手紙も載っていました。その中で


国道に近い人はそれぞれ自分で出来ることで手助けしたようです。だけどみんな、そんな立派なことをしたとは思っていません。困っている人があれば、手をさしのべるのは、あたり前のことだと思います


そして、手紙の最後はこう結んでありました。


私たちは1人では生きていけません。・・助けられたり、助けたりしながら楽しく生きていきましょう


この福岡市立石丸小学校4年2組の取り組みは、国語・社会・道徳なども含めて、地域社会とつながるリアルタイムな「総合」の時間そのものではないでしょうか。担任の先生の言葉にある


こんな大人になりたいという将来像を意識し始めた


貴重な時間になると予測してなかったとしても、担任の先生の感動が、子どもたちの心に響いた結果であることは間違いありません。


福井県敦賀市や南越前町のみなさんの「温かさ」


2011年。先日は、鈴鹿山脈のふもとのわが家周辺でも30~40cmの積雪を除雪しました。でも、この1月末の北陸の大雪は、ハンパではありませんでした。新聞の1面には、「北陸で記録的な大雪」という記事が載っていました。


『・・JR北陸線では30日夜から特急など9本が動けなくなり、うち福井県内で立ち往生した計3本の乗客約1150人が車中で2夜目を迎える事態に。福井県内の北陸自動車道では最大950台、国道8号では同150台が立ち往生した。・・福井県越前町今庄で242cmと観測史上最大を記録した。』


これは、ただごとではありません。30面には「ドカ雪 住民救いの手 福井」という記事も載っていました。


『・・列車や車に閉じこめられた人も多数いたが、自治体や周辺住民が炊き出しなどで支援の手を差し伸べた。・・「昨夜ご飯を食べた後、何も口にしていない。ありがたい」・・敦賀市職員が差し入れたおにぎりをほおばった。・・敦賀市は31日午前、運転手らに炊き出しのおにぎり配布を決め、防災用の備蓄米で1200人分(2400個)のおにぎりを作った。支援の輪は民間にも広がった。かまぼこ製造会社は、焼きちくわ900本を、昆布加工・卸売会社は、昆布を巻いたおにぎり60パックを運転手に配った。・・早朝に雪かきをしていた今庄駅付近の住民らは、列車内で一夜を明かした乗客から「食べるものがほしい」と頼まれた。近くに住む方(高齢者)は茶を沸かし、駅まで何度も運んだ。住民有志でおにぎりの炊き出しも始め、約800個を列車に届けた。差し入れを受け取った乗客は「気持ちがうれしい、ありがたい」と話した。』


大雪の中、お茶を沸かしては駅まで何度も運んだおばあちゃんをはじめ、住民のみなさんや、敦賀市職員さんの温かい気持ちが私たちにも伝わってきました。


滋賀版23面を見ると、「湖北大雪 余呉249cm最深タイ 米原駅で車中泊」という記事もありました。


『・・JR西日本では・・米原駅に到着した快速電車を「列車ホテル」として開放。・・119人が車内で一夜を明かした。JRでは、31日朝になって新たに特急「しらさぎ」を休憩所として用意。正午ごろには車内で運行再開を待つ乗客らに駅員らが弁当を配り歩いた。・・乗客の一部はJRが彦根駅周辺に用意したホテルに移動した。・・県内有数の豪雪地帯でもある高島市マキノ町在原地区では・・240cmを記録。』


長浜市余呉町柳々瀬の249cmは1984年(S59年)の観測史上最深記録と並んだとのことです。米原駅で弁当が配れたのは、同駅が新幹線・北陸線・東海道線のターミナル駅のため、駅弁がいつも売られている駅だからです。どの駅でも配られると誤解しないでくださいね。心配なのは柳ヶ瀬と在原です。雪崩が起きませんように。柳ヶ瀬と言えば、滋賀県一の豪雪地帯です。在原は、茅葺きの家々が点在する原風景(観光地化されていない)を今なお残す所です。屋根の雪下ろし、どうか気をつけてください。


福井県今庄の人たちへ、大阪の人から感謝の手紙


2011年2月4日(金)の新聞34面に「あのおにぎり 忘れない」という記事が載っていました。紹介させてください。


『北陸を襲った大雪で特急列車が25時間以上立ち往生したJR今庄駅(福井県南越前町)に3日、乗客だったという人から手紙が届いた。おにぎりや弁当を配ってくれた地元の人や駅員らに感謝の言葉をつづっている。住民たちは、思わぬ便りに顔をほころばせている。・・  手紙は大阪府藤井寺市の消印で、サンダーバード40号の「1乗客より」となっていた。「家も大変な時なのに我々のためにおにぎりを握ってくださり、あの味は一生忘れることのできないものとなりました」と地元の人たちに感謝していた。弁当や毛布を運んだJR関係者には、「(列車が)動き出した時には皆様がホームに立ち、深々と頭を下げ、手を振ってくださっている姿に胸迫るものがありました」とお礼の言葉を書いていた。・・駅には他にも、お礼の電話や礼状の送り先を問い合わせる電話が数件かかっているという。』


携帯電話の充電のため、コンセントを貸してもらった人もいたそうです。何の見返りも求めず懸命にしてあげた今庄の人たちにとって、大阪府藤井寺市周辺の人からの手紙は、「してあげて、ほんとによかった」という、うれしい便りだったことでしょう。


除雪ボランティアが滋賀県長浜市木之本町・余呉町へ


昨日は立春でした。大雪の峠は越えましたが、まだ滋賀県北部では積雪2mを超す所がたくさんあります。今朝、散髪屋さんに行って、中日新聞を読んでいたら、載っていました。今、手元にないので、覚えている範囲内です。まちがっていたらごめんなさい。


滋賀県長浜市木之本町では、社会福祉協議会が除雪ボランティアを募集したところ、県内外から20人の方が応じてくださったそうです。そして、高齢化率の高い集落を中心に除雪をがんばってくださったと書いてありました。参加した滋賀県米原市の若者の声も載っていました。今の若者たち、やるじゃないですか。県外からも遠いのに、わざわざ来てくださる、これもなかなかできることではありません。


こういう話は、ぜひ、子どもたちに伝えてほしいと思います。先日、福岡県の小学校の先生が言っておられた


「社会とのつながりや、こんな大人になりたいという将来像」を、子どもたちが描くモデルのひとつになるのではないでしょうか。


朝日新聞2011年1月20日(木)2面の「ひと」で、次のような記事が載っていました。紹介します。                                               


ハイチで仮設住宅の建設を引っ張る大野拓也さん


『ミスター・シェルター。1年前の大地震で推定23万人が犠牲になったハイチで、こう呼ばれている。仮設住宅を建てるエキスパートだ。発生後、電話が次々にかかってきた。「ハリケーンに耐える屋根の工法は」「熱帯で木材の耐久性は」


その時は、インド洋大津波の被災地スリランカにいた。災害や紛争で住居を失った人々を支える国際移住機関の職員として、5年間で2万戸の仮設を建てた経験が、似た気候のハイチでも求められた。


ほどなくして現地入り。数千のテントがひしめく広場は生ゴミが散乱し、異臭が漂っていた。


まず、設計図を引く。地元業者が簡単に建てられるように現地の工法を採用。耐久性と費用のバランスから、壁は厚さ6ミリの合板、屋根は0,4ミリのトタンと決めた。


工事を始めると、子どもたちが集まってきた。柱が立つと笑顔に変わり、屋根ができると中に入りたがる。いま3千戸に1万5千人が暮らす。‥住民は喜んでくれた。


建築学の博士号をもつ。大阪大3回生の冬に阪神大震災に遭い、住居の大切さを痛感した。2005年に大学院を修了し、就職までの3ヶ月契約でスリランカへ。だが、仮設にうれし泣きし、踊って喜ぶ人々に出会い、正規の職員になった。


復興2年目に入ったハイチでは、まだ数十万人がテントで生活する。年末年始を大阪で過ごし、とんぼ返りした。』


【雪とパイナップル】のヤヨイさん


国際医療ボランティアで72回の医師団を派遣し、6億円の医薬品・医療機器を送って、子どもの命を支える支援を続けたメンバーの鎌田實(みのる)Dr.が、アンドレイ君の死後、再びベラルーシ共和国のアンドレイ君家族の元を訪れます。その時、エレーナ母さんが鎌田さんに語ってくれた言葉を、絵本「雪とパイナップル」の中から抜粋して紹介させてください。


『私には忘れることができない人がいます。日本から、移植療法の看護を指導するために来た、ヤヨイさんという看護師さんがいたでしょう。・・ヤヨイさんが、オーバーの襟を立てて、雪の町へ出て行くのが、病院の曇った窓ガラスを透かして見えました。翌日も、ヤヨイさんは、マイナス20℃に凍った町へ出かけて行った。次の日も、ヤヨイさんは、窓の外に消えた。その時、もしかしたらって、思いました。アンドレイが、わがままを言ったからかも知れない。ヤヨイさんはパイナップルを探しに、町へ行くのだと、確信しました。無理なこと言ってゴメンなさいって、心の中で謝りました。』


『ありがたい。幸せな子だと思いました。こんなに大切に思ってくれる人がいる。日本の人が最先端の治療で、うちの息子の命を救おうとしてくれている。感謝しています。でも、あるはずのない、パイナップルを探して雪の町を歩きまわってくれた彼女のことを考えると、私は人間って、あったかいなあって思いました。』


『私は、うれしかった。人間ってすごいなあって、そのとき思ったのです。やさしい心は、人から人へ伝染していくんだって。・・雪の中を、パイナップルを探して歩いてくれた、ヤヨイさんのことが忘れられません。私はアンドレイが病気になってから、なぜ、私たちだけが苦しむのかって、人生をうらみました。原子力発電所の事故のことを秘密にした国の指導者をうらみました。放射能のことを知っていたら、黒い雨の中、アンドレイを私は外に連れ出さなかった。人生は意地悪だなあって思った。私たちは、ささやかに、つつましく、生きてきました。何も悪いことをしていないのに。生きている意味が見えなくなりました。でも、ヤヨイさんのおかげで、私の中に、忘れていたものが、よみがえってきました。それは感謝する心でした。人間と人間の関係はまだこわれていない。私たち家族の内側に、新しい希望がよみがえってきました。』


『パイナップルの缶詰を缶切りでヤヨイさんが開けた時、プシューッと音がして、いろんなものが飛び出したように見えました。真心や希望が見えたような気がしました。人間のことも、命のことも、世界のことも、少し見えたような気がしました。本当にうれしかった。缶詰の中の何かから、アンドレイの命をもらったのかもしれません。パイナップルが育つ南の国の太陽が見えたような気がしました。』


『ドクターたちのことはもちろんですが、マイナス20℃の雪の町をパイナップルを探し歩いてくれた日本の女性のことを、私たち家族は、一生忘れないでしょう。パイナップルは、アンドレイにとっても、私たち家族にとっても、希望そのものでした。短い命でしたが、幸せな子だったと思います。』


以上、最愛の息子アンドレイ君を失ったエレーナ母さんが、目に涙をいっぱいためてポツリポツリと、鎌田さんへおだやかに語ってくれた言葉でした。


そして、この「雪とパイナップル」の1章「遠い旅のはじまり」に鎌田さん自身が書いておられます。


「一番大切なものを失った時でも、人間は感謝することができることを知りました。言葉が違っても、歴史が違っても、文化が違っても、宗教が違っても、人間は理解しあえると・・・・・悲しみや、苦しみや、喜びを分かち合えることを、雪の中のパイナップルから教えられました。」と。


鎌田さんが「命の切なさや、大切さを考えることのできる、未来の日本を支える人たち」に贈りたくて「大人が読む絵本というカタチ」にしたかった本書「人は一瞬で変われる」は、ぜひ直接お読みください。図書館にもあるはずです。


【アハメドくんの いのちのリレー】


医師である著者・鎌田實(みのる)さんが「あとがきにかえて」で、次のように書いておられます。抜粋しながら紹介させてください。


『5年間、ずっと気になっているパレスチナ人がいた。小さな新聞記事を読んでから、いつか会いたいと思い続けてきた人。イスラエル兵に殺された息子の臓器を、敵国の病気の子どもたちを救うために差し出したお父さん。彼の行動や想いを絵本にしたい。・・もともと、どちらかの国を一方的に責める本は書きたくなかった。・・世界中の人に、アハメドを失った悲しみを横に置いて敵国の病気の子どもたちを助けたイスマイル父さんのことを知ってもらいたい。心臓を提供してくれたイスマイルさん一家のことを、もう1つの家族として大切にし、「大人になったら自分もパレスチナの子どもの命を救い、平和の橋を架ける人間になりたい」と語るイスラエルの少女、サマハちゃんの言葉を聞いてもらいたい。・・イスマイル父さんが息子の心臓を提供してくれたことから始まった、やさしさのリレー。この「きっかけ」を忘れないために、ぼくは絵本をつくった。・・いろんな国の人たちに読んでもらいたくて、英文をつけることにした。・・紛争の絶えない憎しみの大地で見つけた希望の言葉「にもかかわらず」をキーワードにした絵本を読んだ人たちが、新しい波を起こしてくれることを祈っている。』


「絆の力 かたちに」 という生活面の記事が、朝日新聞2011年1月27日(木)25面にのっていました。紹介させてください。


市、ごみ出す「手」見守る「目」


京都府宇治市では、1人暮らしで体が不自由なお年寄りの自宅まで足を運び、ごみを回収する「ふれあい収集」と呼ばれる市のスタッフがいるという記事でした。必要なのは、日々の暮らしを支える「手」ということで、2年前から始めたと書いてありました。ごみが出ていなかったり、声かけに反応がなかったら、緊急連絡先に連絡する安否確認サービスも兼ねているそうです。記事は、最後に次のように締めくくってありました。


『見えてきたのは、玄関に出てくるのが精いっぱいという1人暮らしのお年寄りが、こんなにたくさんいるのかと収集スタッフも驚く現実だった。‥効率で割り切れぬ仕事だ。ときに、お礼の手紙も届く。網の目のように地域を回るごみ収集スタッフが、家族代わりにお年寄りを見守る「目」となる。担当課長は、やりがいがありますと言った。』


地域が「自ら」「共に」雪かき


『「おはようございまーす」2011年1月半ばの日曜日。元気よくあいさつをした中学生4人が、大人がスコップでかき出す雪をソリで運ぶ。杖をついて玄関先に出てきたお年寄りが、
「ありがてぇ、ありがてぇ」とつぶやく。奥羽山脈の抱かれた豪雪地帯、岩手県八幡平市の安代地区。10人の除雪隊が1人暮らしの高齢者でボランティアの雪かきを始めた。大雪の今年、軒先まで雪に埋もれていた平屋の家が、15分で姿を現した。‥過疎化に悩む「地方」にこそ、再び絆を育むヒントがある。約15年前に地元の社会福祉協議会がつくったのが除雪隊「スノーバスターズ」だ。60代以上の住民が中心だが、中学生もクラブ単位で参加する。福祉教育の一環だ。‥絆は求めて結ぶもの—。‥抱く思いだ。絆って、当たり前にあるものじゃないんだって気づいた」‥「雪国の冬は大変よねー。」何げない問いに、お年寄りが思わぬ言葉を返してきたという。
バスターズで元気な子どもたちが来るのが楽しみ。3日前からわくわくして、3日余韻を楽しむ。だから1週間はあっという間。気づいたら春がくる
この日、バスターズがそのまま通り過ぎた家があった。近所の人が率先して雪かきを済ませてくれたらしい。15年たって、そんな家が増えてきた・・
私の目標はね、バスターズの解散なんです」』


以上です。よけいなコントは書きません。ぜひ、子どもたちに話してあげてください。こんな日本の人たちがいるということを。(2011年2月10日)


岩國哲人さん体験談「おばあさんの新聞」心温まるエピソード


たしか2014年10月中旬頃の朝刊1面下の天声人語に載っていました。と書いた理由は、その記事を切り取って残しておいたので、今も手元にあるのですが、じつは日付をメモするのを忘れていたからです。


岩國哲人(いわくにてつんど)さんの著書を図書館で読んだことがあります。大阪生まれの島根育ちで、たいへん苦学されたそうです。日米の大手証券会社で活躍され、島根県出雲市長になられて取り組んだことを書かれた自叙伝「男が決断する時」だったような気がします。その後、衆議院議員もされて、米中韓の各大学客員教授などもなさったようです。国際金融界から出雲市長を経て政界まで渡り歩く大胆な人生を歩まれた方、という印象があります。しかし、この「おばあさんの新聞」というエピソードは、初耳でした。次のような記事(少年てっちゃん=岩國哲人氏)です。


『早くに父が亡くなり、家には新聞を購読する余裕がなくなった。好きなのでなんとか読み続けたい。少年は新聞配達を志願した。配った先の家を後で訪問し、読ませてもらおうと考えたのだ。


元島根県出雲市長で衆院議員を務めた岩國哲人さん(78)の思い出だ。日本新聞協会の新聞配達エッセーコンテストの大学生・社会人部門で今年、最優秀賞になった。題して「おばあさんの新聞」


小学5年の時から毎朝40軒に配った。読み終わった新聞を見せてくれるおじいさんがいた。その死後も、残されたおばあさんが読ませてくれた。中3の時、彼女も亡くなり、葬儀に出て実は彼女は字が読めなかったと知る。「てっちゃん」が毎日来るのがうれしくて(おばあさんは新聞を)とり続けていたのだ、と。涙が止まらなくなった……


岩國さんはこれまで新聞配達の経験を語ってこなかった。高校の同級生で長年連れ添った夫人にも。しかし、今回、おばあさんへの感謝の気持ちを表す好機と思い、応募した。「やっとお礼が言えて、喜んでいます」。きのう電話口で岩國さんはそう話した。(以下略)』


岩國哲人さんは、人生で忘れられない「おばあさんの新聞」の体験を、市長時代にも、衆議院議員時代にも、一切だれにも語らず、心の中にそっとしまっておられました。それだけで尊敬してしまいます。第一線から退いた今、エッセーに綴ることで、おばあさんへの感謝の気持ちを伝えられたのでしょう。60年以上、ずっと心の中で大事に大事にあたためておられた・・なんとも言えず心がじんわりと温まり、読み手までもらい泣きしそうなエピソードだと、感銘を受けました。


『おばあさんの新聞  岩國 哲人(78歳)東京都(敬称略)


 一九四二年に父が亡くなり、大阪が大空襲を受けるという情報が飛び交う中で、母は私と妹を先に故郷の島根県出雲市の祖父母の元へ疎開させました。その後、母と二歳の弟はなんとか無事でしたが、家は空襲で全焼しました。


 小学五年生の時から、朝は牛乳配達に加えて新聞配達もさせてもらいました。日本海の風が吹きつける海浜の村で、毎朝四十軒の家への配達はつらい仕事でしたが、戦争の後の日本では、みんながつらい思いをしました。


 学校が終われば母と畑仕事。そして私の家では新聞を購読する余裕などありませんでしたから、自分が朝配達した家へ行って、縁側でおじいさんが読み終わった新聞を読ませていただきました。おじいさんが亡くなっても、その家への配達は続き、おばあさんがいつも優しくお茶まで出して、「てっちゃん、べんきょうして、えらい子になれよ」と、まだ読んでいない新聞を私に読ませてくれました。


 そのおばあさんが、三年後に亡くなられ、中学三年の私も葬儀に伺いました。隣の席のおじさんが、「てつんど、おまえは知っとったか?おばあさんはお前が毎日来るのがうれしくて、読めないのに新聞をとっておられたんだよ」と。


 もうお礼を言うこともできないおばあさんの新聞・・・。涙が止まりませんでした。』


懸命の人命救助【関根さん、李秀賢(イ・スヒョン)さん、厳俊(イェン・チュイン)さん】の志から学ぶこと


読んで幸せな気持ちになった新聞記事と理由を募集する「HAPPY NEWS 2013」(日本新聞協会主催)の受賞者が2014年4月3日に発表されました。新聞報道の中で読者を幸せな気持ちにした人物に贈られる「HAPPY NEWS PERSON」には、昨年2013年9月に台風18号で増水した淀川へ飛び込み、溺れている小学生を救出した中国人留学生:厳俊(イェン・チュイン)さんが選ばれたことを、4月3日の夕方、テレビのニュースで見ました。


ふっと、かつて、JR山手線で起こった人身事故を思い出しました。あれは2001年、酔った男性がホームから線路に落ち、その男性を助けようと線路に飛び降りた韓国人留学生:李秀賢(イ・スヒョン)さんと日本人カメラマン関根さんが、助けようとした男性とともに電車にはねられ、3人とも死亡されたという、誠に無念な出来事でした。


12年の時を経て思うことは、いずれも自らの危険を顧みず、とっさに行動した関根さん、李秀賢(イ・スヒョン)さん、厳俊(イェン・チュイン)さんの3人は、人命救助への勇気・決断力・行動力を備えておられることです。今、改めて、関根さん、李秀賢(イ・スヒョン)さん、厳俊(イェン・チュイン)さんの3人には、心から敬意を表したいと思いました。3人の足元にも及ばない私などには到底真似すらできません。30年以上前ですが、実際によく似た電車事故の場面に遭遇しました。その瞬間、隣のホームにいた私はハッと息を飲み、体が硬直して、1歩も動けなかった情けない体験があるのです。


関根さん、李秀賢(イ・スヒョン)さん、厳俊(イェン・チュイン)さん、3人の行動から教えられたのは、人の命を助けようとする気持ちに、日本人・韓国人・中国人の違いなどない・・この3人は、人間として立派だということです。「◎◎人は・・・」と一方的に決めつけることは、偏見による差別意識に根ざしていないでしょうか。だからこそ、日本にも韓国にも中国にも、人間として立派な人、尊敬できる人、人を大事に出来る人がいることに、あえて目を向けたいものです。私も直接出会って、その誠実な人柄に感銘を受けた、韓国籍や中国籍の知人がいます。まずは交流・対話を絶やさないことが大切だなと思いました。


「国境なき芸能団」の落語家:笑福亭鶴笑さん


この話題が、社会科なのか、道徳なのか、総合の国際理解教育なのか、という判断は、先生方にお任せします。私はただ、こんな日本人がおられることを、子どもたちにも知ってほしいと思っただけです。


今からちょうど半年前、昨年2014年12月20日(土)朝日新聞2面「ひと」で落語家 笑福亭鶴笑さんが紹介されていました。タイトルは「世界の紛争地に笑いを届ける落語家 笑福亭鶴笑さん」で、次のような記事でした。


『人見知りでシャイなのに、笑わせるためなら大胆になる。十八番のパペット落語は、ひざに仕込んだ手作りの人形や小道具を使って繰り広げる一人格闘劇。言葉をこえた芸で、イラク、アフガニスタンと治安に不安のある国も訪れて笑いを届けている。


今年の夏にフリージャーナリストらと向かったアフガンの首都・カブールでは、ヘン顔を切り札に避難民キャンプなどを回った。「喜んでもらえたら、それでええんです」。型に縛られない上方芸人の精神を世界で実践している。(中略)


30歳で落語家仲間と米国に行ったのを手始めに毎年のように海外で芸を披露。有名になりたかった。だが、2000年に大地震後のトルコで「国境なき医師団」の活動を知り、自分にできることを考えた。4年近く暮らしたロンドンでも、芸人が当たり前のように社会奉仕活動をしていた。心を励ます笑いを世界へ届けようと、8年前に仲間とNPO法人「国境なき芸能団」を旗揚げした。


「こっちが笑顔なら向こうも笑顔になる。(後略)」』


記事の紹介は以上です。記事の中略・後略部分も知りたい方は、図書館やデジタル版で読んでください。笑福亭鶴笑さんの言っておられることは、鎌田實(みのる)さん(ドクター)の言葉(著書における文章)と重なって聞こえます。以下は、以前にも紹介しました鎌田實さんの言葉です。


『あったかさは、あったかさの連鎖を生む。‥あったかさは空気感染する。‥一度感染すると、人のあたたかさに敏感になる。小さなあたたかさもすかさずキャッチして、感動できるようになる。‥心をあったかくして、いい人間関係を築いていけば、ストレスが減り、体の免疫力も上がる。心と体はつながっているのだ。‥あたたかさに出会うたび、ぼくらはうれしくなる。元気になる。ほかの誰かを、うれしい気持ちにさせたくなる。元気にしてあげたくなる。・・絶滅させられない、根性のある、あきらめない「あったかさ」を広げたいと思っている。』


鎌田實さんは、私より11歳も人生の先輩ですし、笑福亭鶴笑さんは、私より1歳下です。お二人と比べて、たいしたことは何もできていない自分が恥ずかしいのですが。(2015年6月20日)


第二次大戦中、リトアニアで難民を救った外交官「杉原千畝 SUGIHARA CHIUNE」ら、3人の日本人


2015年10月頃、理髪店で読んだスポーツ新聞に、おおよそ次のような記事がありました。


「第二次世界大戦中、本国の指示に反して難民へのビザを発給し続け、推定6千人の命を救ったと言われる日本人外交官の半生を描いた映画「杉原千畝」の公式試写会がリトアニアであり、主演夫妻を演じた俳優の唐沢寿明さんと小雪さんが出席した‥」


記事は、こんな感じだったように思います。この杉原千畝(すぎはらちうね)氏の勇気ある行いは、かつて聞いた覚え(10年前の読売テレビのドラマだったような、かすかな記憶)があり、杉原千畝氏の役を私の好きな俳優である唐沢寿明さんが演じて映画化されるということで、とても強く印象に残りました。


それで、インターネットでちょこっと調べてみると、映画:終戦70年特別企画「杉原千畝 SUGIHARA CHIUNE」の公開が本日12月5日からだと知って、びっくりしました。映画の公式サイトには、「戦後70年を経て明かされる真実の物語」とありました。


杉原千畝氏(1900~1986)は、リトアニアのカウナス領事館の外交官(1939~1940年)で、迫害から逃れてきた多くのユダヤ系難民に対し、外務省からの指示に反して1940年に数多くのビザ(日本通過査証)を、それこそ命がけで発行し続けて、推定約6千人を救った実在の人物です。救われた人々の「命のビザ」とも言われています。この訓命違反で、帰国後は外務省に居られなくなり、退職を余儀なくされます(戦後なのに)。


実際に杉原氏からビザ発行を受けた難民だった方々が真実(命令に背いて1940年にビザ発行した事実)を知ったのは、29年後の1969年でした。それまでは杉原千畝氏の存在すら、問い合わせても公的には「該当者なし」扱いだったようです。そして、1986年にご逝去されました。


遅すぎましたが、故・杉原千畝氏は2000年になって、ようやく政府・外務省から公式に名誉回復されます(外務大臣の演説で)。私たちは、日米開戦直前に、こんな日本人がいたことを忘れたくないものです。海外では「日本のシンドラー」と呼ばれているそうです。主演の唐沢寿明さんも「教科書に載せてほしい、世界に誇れる人だから」とコメントされたとのことです。


なお、杉原千畝氏にビザ発行してもらったリトアニアから、シベリア鉄道で極東までたどり着くことができた難民を、これまた独断で日本へ渡航させたのが、ウラジオストク領事館の根井三郎氏で、日本に渡航できた難民のビザ延長許可のため尽力したのが小辻節三氏だということも、同時に知ることができ、うれしく思います。この3人に、根井三郎氏に説得された天草丸(ウラジオストク港→敦賀港)の船長さんや、奔走する小辻節三氏に助言した松岡洋右外務大臣も加えると5人でしょうか。


自由にものが言えなかったあの時代に、人道的見地から少なくとも3人の日本人による難民救済のリレーが行われた事実は、同じ日本人として胸に刻んでおきたいと思いました。3人とも、自分の置かれた立場で、自分の良心(人道的見地)に基づき、自分が人として正しいと判断したことを実行されたのでしょう。


杉原千畝氏が生まれ育った岐阜県加茂郡八百津町には、杉原千畝記念館があるので、いつか訪れてみたいものです。前段で「3人の日本人による難民救済のリレー」と書きました。しかし、ポーランドの隣国でバルト海に面したリトアニアと、極東のウラジスオストクと、日本国内という、遠く離れた3人が連絡を取り合った形跡は皆無(不可能)だったことも記しておきます。(2015年12月5日)


映画、観に行ってきました。杉原千畝氏と根井三郎氏は同じ学校の卒業生で、校訓「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして、報いを求めぬよう」を忘れなかった2人は、難民の命を救うことを最優先したのでしょう(自分の立場が悪くなるのを覚悟して)。普段エンディングになるとすぐ退席する私が、エンディングの音楽を聴きながら、キャストやスタッフなどを紹介する画面も最後まで見て、それからしばらくの間も座ったまま余韻に浸ってしまいました。命を救われた人々の子孫は今、世界中で約4万人おられるそうです。もう一度観に行きたいくらい・・・そんな映画でした。【2015年12月9日】


ミャンマーの若者へ支援を続ける今泉清詞さんは元日本兵だったのですね


2015年12月9日(水)朝日新聞朝刊2面の連載記事「ひと」は、「ミャンマーの若者を支援し続ける元日本兵 今泉清詞さん」(新潟県生まれ・埼玉県在住)でした。


その記事によれば、92才の今泉清詞さんは、ビルマ(現ミャンマー)のインパール作戦に従軍した元日本兵でした。そのインパール作戦で戦死した、私の母の兄と、たぶん同じ年ぐらいではないでしょうか。記事の中ほどをぜひ紹介させてください。


『(第1・2段落省略)1989年、「ビルマ奨学会」を立ち上げた。(中略)


きっかけは、慰霊のために現地を訪れたときの体験だ。戦争中は現地の住民らから食料や家畜を徴発(軍が物資を強制的に取り立て)し、田畑を踏み荒らした。石を投げられても仕方ないと覚悟したが、行く先々で一緒に手を合わせ、温かく迎えてくれる人たちがいた。「何としても恩返しを」と心に決めた。


将来を担う若者を支援したいと、日本に来たミャンマー人留学生を毎年10人選び、月4万円を2年間支給した(全額返済不要)。その数は、約20年で計178人。奨学会はその後、現地の学生を支援する形になり、いまも資金援助を続ける。(以下略)』


記事の最後は、今泉清詞さんが最も大切にされている人生訓で結ばれていました。


『かけた情は水に流して、受けた恩は心に刻む』


無念の戦死だったであろう、体が丈夫じゃなかった伯父も、きっと今泉清詞さんが今ミャンマーの若者を支援でしておられることに、拍手をおくっているのではないでしょうか。(2015年12月27日)


関連ページ


元気のもとは「支え合って、つながること」「学校の実働部隊応援団コミュニティ・スクール」「福島の韓国人留学生」・北海道・東京・愛知・京都・大阪・兵庫・沖縄・トルコ・和歌山など

http://sg2takaboo.exblog.jp/24898202/



by takaboo-54p125 | 2016-09-15 04:53 | 保育・教育

後ろ姿で教えてくださった先輩の存在


朝は、誰よりも早く出勤して、お湯を沸かして、ポットの準備をされます。(毎日です)そして、学年主任の年は、学年だよりの印刷を4~5クラス分されます。(毎日です)そして自分のクラスの学級づくりは後回しにされます。授業の進度も他のクラスより、わざと遅くされます。同学年の若い先生らが、安心して取り組める「空気」「雰囲気」をつくられるのです。教務主任の年は、入学式でも、運動会でも、卒業式でも、人の3倍は動かれます。それを見た教職員はみんな、動きがよくなります。そして、みんな、全体をよく見て、初期対応に心がけるようになります。つまり、いつも後ろ姿で同僚(後輩)に教えてくださる、「すご腕」だったのです。私(加配)が6年生の担任代理に入った時のことも、よく覚えています。毎日、放課後になると、教室の掃き掃除を、自ら手伝いに来てくださいました。教務で忙しいのに、です。


その先輩は禅寺の和尚さんでもありました。かつて修行をなされた本山を、私も訪れたことがあります。どの修行僧の方々も、私たちの食事を運んでから下げるまでの動きが、見事でした。所作に一切の無駄がなく、黙々とこなしていかれる姿には、感動すら覚えました。先輩はその動きを、職場でもそのまま実践しておられたのです。今は、校長先生をしておられます。きっと、後ろ姿で教える校長をしておられることでしょう。その後ろ姿に気づかない担任は、子どもも観えていないと思います。周りの同僚が、さり気なく教えてあげてほしいものです。


私は、その先輩の後ろ姿を見て以来、見よう見まねで、意識して動くようになりました。そのおかげで、今はリハビリの家事を、てきぱきこなせるようになりました。右手右足などのしびれをガマンしたらいいだけです。後ろ姿から、あんなにたくさん教えてくださったのは、この先輩が最初で最後の1人です。そんな人と出会えたこと、私はラッキーだったと言えます。10年近くご一緒させていただき、ありがとうございました。今日、その先輩からEメールが来ました。2011年お正月で、だらけていたところです。襟を正すことができました。しまった!この先輩には支えてもらっただけで、お返しができていません。                                                                        


年賀状・メール・Eメールで元気玉をもらいました


携帯メールで、こんなオッサンにも、うれしいひと言をもらいました。25年間の教え子「やんちゃトップ5」、いやいや「やんちゃ四天王」の1人に入る子からです。「先生も今年1年よい年でありますように」。つい先日も「まだまだ元気でいてもらわな」(泣けそうになります)。パソコンEメールでは、遠州灘の「初日の出」の写真を送ってもらいました。(早朝7時前から、寒い中を、ありがとうございました)。九州在住の教え子が、励ましのEメールを送信してくれました。(受験も、採用試験も、私と同じような回り道を歩んでいる教え子です。健康だけは気をつけて私の真似をしないでください)。


年賀状の添え書きも、ひと言ひと言にズーンときます。「今年もメル友よろしく」(ごめん。夏にブログ始めてから、Eメールすっかり忘れてました。と言う兵庫県の旧友も忙しくてメールチェックしてなさそうです)。「先生の熱いメッセージが今も脈打ってます」(実は心あたりがないので、とても気になります???)。「いつも気にかけてくださり、ありがとうございます」(わが子がスポ少でお世話になった青年です。実は年1回あるかないかなのです。すみません)。「アドバイスにとても感謝しています」(東京在住の教え子です。いつもEメールで助言してもらったのは、むしろ私のほうなのです。ほんとに、ありがとうございます)。「ブログ拝見しています」(私がきつい仕事の時に毎日助けてくれた相棒で、パソコンの達人でもあり、私の何倍も鋭いので、恐縮してしまいます)。「毎日の更新、とてもまねできません」(それだけ私は、お暇なのであります。持ちネタが残り少ないので、詩やエピソードで場つなぎしてます。明るいユーモア・ネタの準備中です)。「また、よかったら新年会でも」「また、お会いしたいです」(よろこんで)。「頼りにしてます」(こちらこそです。頼りにしてもらえるうちが花です)。「ときどき来てくれる、この新鮮さがとてもうれしい。待ってるよ」(今も多くの人に法話をなさるバリバリの現役で、生き生きしておられる人生の大先輩でもある恩師です)。「いっそう若い方々にお伝えください」(引っ込んでいた私を、最初に外へ引っ張り出してくださった恩人です)。「お互い石にかじりついてでも生き残ろうな」(西宮から名神高速でお見舞いに駆けつけて来てくれた旧友です。100m走11秒台の韋駄天ぶりは今も健在でした。感謝してます)。「お体、ご無理なさいませんように」(ゆるゆる、たらたらとやってます。ご安心を)。「ゆっくりは、物事をしっかり見ることにつながります」(絵本「おこだでませんように」を教えてくださった人生・生き方の師匠と言える方です)。「いつもご指導ありがとうございます」(後輩なのにあまりにも優秀なので、つい私のほうが甘えてしまっていました)。「ぜひ出版していただけるとうれしいなあと思います」(その気にさせないでください。子どもの意欲をそうやって引き出してきた方です。猪(私)は木に登れません。このブログで十分です)。「いろいろと相談にのってくださってありがとうございました」(同じ釜の飯を食った仲間ですから当然です)。「現場は多忙を極めてドタバタ‥‥だからこそ見失わないものをしっかり見つめていきたい」(後輩、冷静沈着でかっこいいです)。「飛び入りの余興、おもしろかったです」(新郎がそう言ってくださるならば、それでは、実況中継ブログを2月8~9日に!本気モードです)。


こうやって並べると、私ってすごい人みたいと勘違いしないでください。(どなたも、ほめ上手過ぎです)。と、自慢したいのではなく、私はプリンターでササッと印刷して、投函していたからです。添え書きが相手(私)に、どれほど元気と意欲と勇気を与えてくれるのかと、感じ入りました。同時に、添え書きをほとんど省略してきた自分が恥ずかしくなりました。忙しい人は仕方がありませんが、忙しくない私ですから反省しています。(私は枚数も少ないですし)。私もこんな添え書きが来年は書いてみたいです。(と、今は思っています)。携帯メールも、パソコンEメールも、年賀状も、相手がうれしく思ってくださるように、心がけたいです。(と、今は思っています。新年の抱負みたいで、1ヶ月たったら忘れそうです、という言い訳です)


以上、私がほとんど支えてもらった方々でした。(してもらいっぱなしで、すみません)


人は支援されるだけでは元気にならない 支え合って、つながることが出発点


1月3日2面の朝日新聞記事の紹介(個人の名前などは抜粋)!


『‥北海道釧路市で芽生えている。「ウチみたい」「こんな家族だったらいいのに」コミュニティーハウス「冬月荘」に集まる子どもたちが口をそろえる。


2階建ての冬月荘は、民間企業の旧社員寮。同市のNPO法人「地域生活支援ネットワーク」が買い取り、07年に開いた。翌年、生活保護世帯の中学3年生を対象にした市の勉強会が始まった。ここには「○○してあげる」という発想はない。


コーディネーターは、4年前まで板金塗装の仕事をしていた。教育や福祉と無縁の世界。世間が「かわいそうな子どもたち」「がんばるNPO」という先入観を持ってかかわることに違和感を抱いた。


12月上旬の午後、20畳の和室に、制服やジャージ姿の生徒6人が集まった。アイドルの話をしながら、数学や英語に取り組む。ふざける生徒に「ちゃんとしなよ~」と優しくいなす声。誰も責めない。勉強会は口コミで広がり、今は生活保護世帯に参加者を限定していない。


勉強を教える10~60代のチューター役は、地域の住民や大学生のほかに、アルバイトと生活保護で暮らす2階の住人たちも加わる。


今までなら「支援される側」と固定されていた人が、支援する役割も持っているのだ。 人を育む家族に、その境界線がないのと同じように。


チューターの1人で元生活保護受給者の男性は、「子どもたちに分かりやすく教えるために、どうすればいいか考える。それが楽しい。存在価値をお互いに認めあえる」


誰でも主役になれる場」だという。あるべき姿を押しつけず、子どもと大人がどうしたいかを話し合い、築いた。‥


東京都文京区のビルにある「ひなたぼっこサロン」。児童擁護施設などで育った若者が立ち寄れる居場所だ。‥子どもの時に大切にされた感覚がない分、人を信じるのが苦手だった。お金のやりくりから生きる目的までわからなかった。サロンに来る若者たちからも、「普通に育ちたかった」と相談される。


子どもは親や育ちを選ぶことができない。悲しみや孤立感に思いをはせてほしい。子どもたちを独りぼっちにしないで


大阪市のNPO「西淀川子どもセンター」は市営住宅の1室を借り、学校になじめなかった若者に勉強を教える。‥「大先生がいる必要はない。よっしゃよっしゃと言って認めるおばちゃん、おっちゃんでいい。地域におらなあかんのです」


人は支援されるだけでは元気にならない。支え合って、つながることが出発点だ。崩れた家族の教育力を補う営みは、誰もが担うことができる。』


以上です。太字は、なんかヒントになりそうな気がしたところです。支え合ってつながることを大事にする人たちがいてくれはる…考えさせられました。とても及びませんが、自分のまわりで、自分にできることをしたいと思います。午前中しかできないのが、我ながら歯がゆいところです。でも、それが今の自分の身の丈ですから、ぜいたくを言ってはいけません。「午前中だけでもできる」と思うことにします。今まで支えてくださった方々にはお返しできませんが、それを若い学生さんに伝えることで、少しずつ世の中に返していきたいと思います。(来年度の予定です)


「地域に開かれた学校」から、さらに1歩前進し始めた学校


あれは「地域に開かれた学校」にしようとし始めた頃でした。「不審者対策」で校門を閉めざるを得なくなりました。どの学校にとっても頭の痛いことでした。


確かに、わが子の通う3校以外で、堂々と門を開けて入れる学校は、ほとんどありません。先生方に知り合いの多い私でも、ためらいます。よい情報がある時、教えてあげようかなと気軽に行けるのは、1,2校だけです。


たいていの人は、1歩引いてしまいます。地域のみなさんも、あの閉ざされた門を見ると「入るのに勇気がいる」と言われます。門を閉ざすな、と言っているのではありません。必要不可欠な「不審者対策」は、望まぬ結果も、もたらしてしまったということです。敷居を低くしたい学校にとっても、地域の人々にとっても。


そんな中、1月6日(木)朝日新聞1面の「絆つくる『おらが学校』」は、うれしいニュースです。 個人名を仮称にして紹介します。強豪大学ラグビー部の元監督さん(Nさん)の話です。


『(Nさん)は、小学校の「応援団長」をしている。東京の住宅地にある杉並区立三谷小学校が、その舞台だ。三谷小は、地域が学校を支えるコミュニティ・スクール(CS)だ。‥三谷小は「人が来ない学校だった。」と元校長‥は言う。住民や親が訪れて来ない。ランドセルを背負った子が校門を通りすぎ、別の学校に向かう。学校選択の際、学区の家庭から選ばれないからだ。何とかしたいと2005年、CSになり、グラウンドが近くにある(Nさん)に会長を頼んだ。


ラグビー界で有名な「荒ぶる魂」を率いる指導者の学校観は厳しかった。「学校には目標も計画もない。健やかな子といった、ごくありふれた目標では人は動かない」初会合で黒板に大きく「ゴール」と書いた。掲げた目標は「自信と誇り」。1人ひとりが自信を持ち、学校や家庭、地域に誇りを抱く。そんな学校にしようというのだ。


12人のCS委員が心がけたのは自ら汗をかき、学校の実働部隊となることだった。保護者に自分や子どもがあいさつしているかアンケートした。子どもにおはやしを教えた。原っぱを広場として残した地元の人々を表彰した。


薄暗い図書館も変えた。地域に呼びかけて本を集め、10畳の畳の間をつくると、休み時間、寝そべって本を開く子でいっぱいになった。


(Nさん)は会議で宣言した。「先生を批判するマイナスの評価はしない。たたえるプラスの評価をしたい」教師も1歩踏み出す。学校の現実を知らない委員たちに対し、「担任の1日、コッソリ教えます」「初任教員のナイショ話」とビデオやカード、日誌を使って説明した。


昨年9月の会議。「給食で嫌いな物を、涙をぽろぽろ流しながら食べていた子がおかわりしだした」「苦手な計算に取り組む子をほめると、周りの子も、よしっ、ぼくもと頑張り始めている」そのたびに委員から拍手が起きる。


そして夜11時まで校長室でおにぎりを食べながら、学校の運営方針を話し合った。(Nさん)は語る。「目指すのは、CSの積極的な解散。制度がなくても地域や親がかかわり続ける形にならないとおかしい」‥。四角い教室が丸く大きく、地域に広がっていってこそ本来の姿だ。‥』


以上です。どの学校にも目標も計画もあります。しかし、評論家や批評家だけだと、会議が増えるだけです。自ら汗をかき、学校の実働部隊となる応援団、心強いな!と思いました。ただし、CSを受け入れる度量が校長先生には求められます。そういう度量とは、ご自身がお住まいの地域住民の1人として地元地域に貢献している度合いによって自然と備わってくるものではないでしょうか。


福島にとどまり就職した韓国人留学生


2012年3月19日(月)朝日新聞2面の「ひと」欄に、「福島にとどまり放送局に就職する韓国人留学生  朱 美善(ジュ ミソン)さん」という記事が載っていました。抜粋して紹介させてください。


『(前略)気持ちは、徐々に変わる。日本人の友だちや先生、夏祭りで知り合った商店主。奨学金を出してくれた地元ロータリークラブの会員は自宅へ招き、娘のようにかわいがってくれる。放射線への不安を理由に福島を去れば、この人たちを裏切ることにならないか。震災以降、メディアが果たす役割の大きさに目を見開いてもいた。


福島放送の面接で「福島に縁もゆかりもない日本人より、縁もゆかりもある外国人の方が世界に伝えられることもある」と訴えた。「芯の通った熱意を感じた」と採用担当者。新卒採用は1人だけだ。


ゼミの担当教授いわく、一段高い要求にも必ず食らいついていく粘り強さが身上だ。まずは営業局に配属予定。外国人の採用も、女性の営業担当も同社では初めてとなる。「会社の利益を左右するんですよね。ドキドキします」


いわきが舞台の映画「フラガール」に憧れて大学を選んだ。「私にはここの水と空気が合っているんです」。幼い頃から悩まされてきたアトピーが治ってしまったというのだから説得力がある。』


以上です。朱 美善(ジュ ミソン)さんが大学卒業後、たとえ帰国なさったとしても、福島の人たちは、誰も「裏切った」とは思わなかったことでしょう。それでも、あえて福島に残ることを選択した朱 美善(ジュ ミソン)さんが、世界に発信する活躍をされることを、心から応援したいと思いました。(新卒なので営業からのスタートだそうです)


それに先がけて2011年4月、アメリカの日本文学研究者ドナルド・キーンさん(88才:コロンビア大学名誉教授)が、日本国籍を取得して余生を日本で過ごすと発表されました。大学院生への最後の授業で「余生を日本で過ごす。日本国民と共に何かをしようと、震災で決意した」と述べられたキーンさんの心意気と合わせて、行動で福島と一緒に歩もうとしてくださるお2人には、頭が下がります。


荒れがおさまった中学校の先生の印象的な言葉


私たちの保育・教育の根幹、出発点には、いつも目の前にいる子どもの姿がなければなりません。
次の詩のように、これほどの思いを持たざるを得ない子どもが、私たちのそばにもいるかも知れないことを、胸に刻んでおきたいものです。

こんな子生まれてよかったんですかお母さん。
こんな子でも愛してくれますかお父さん。
あなたがたの夢をこわした私。
心の中でないているでしょうね。
ごめんなさい。
私は今あかるく生きています。
それが親こうこうだと思ってもいいですか。                      
お父さんお母さん。
それいがいなにもできません。
ゆるして下さい。
【『17歳のオルゴール』町田知子著(柏樹社)より】

子ども一人ひとりの切実な思いを受けとめながら、日々、子どもの問題行動に対応されている中学校の先生の印象的な言葉を、紹介したいと思います。


「この子がなぜ暴力や暴言などの問題行動に出てしまうのかを考えること、この子たちのサイン、メッセージを感じ取ろうとすること、これらを教師集団が共有していくことがどうしても必要でした。」                          


「どの子にも『共感してつながろうとする』努力もしないで、その子の心に届く指導なんか、入るわけありませんよ。それで、指導が入りにくいって、甘えたことを言う人もいます。また、力で言うことを聞かせるのは、指導とは言いません。ただの命令です。この勘違いは、周囲に悪影響を及ぼします。こういうタイプは、本校には転勤して来て欲しくないですね。」


「その子がくらしの中で何に喜び、何に怒り、何を考えているか交流すること、その子のくらしの現場、生の姿を交流していくこと、その子の痛ましさをキャッチすること、そして見えてきたこと、そのことをつかまずして発する言葉と、共感した中で発する言葉とでは、同じ言葉でも、子どもにとっては全くちがって響いていたようです。」(2011年1月11日)


絵本・児童書:三千数百冊が愛知県Sさんの元から各地へ届いた【人から人への「つながり力」】


愛知県の方(私から見れば「人生の大先輩」とも言える女性)の話です。キラリと輝く絵本や児童文学書ばかり3000冊以上を精選しながらコツコツと購入しつつ、個人で児童図書館を開いて、地域の子どもたちの居場所づくりに取り組んでこられました。私は、そういう方が愛知県にいらっしゃると聞いた時、まさしく「つながり力が育まれる居場所づくり」そのものをしておられることに、感服いたしました。これを毎日続けるということは、そうそう簡単にはできることではありません(とてもとても、私には無理です)。


そんなSさんもご高齢になられ、所有されている子ども向けの蔵書すべては、ご本人の強い希望で寄付という形となって、愛知県内外で寄贈されていきました。まず、半年前、愛知県の学生さんが蔵書リストを作ってくださいました。そのリストを見ますと、1冊1冊ていねいに確認しながらパソコンに入力なさったことがうかがえます。それを愛知県の元小学校教員のみなさんなどなど、多くのボランティアの方々の手によって、本の種類ごとに箱詰めされていきました。これも、なかなかたいへんな手作業で、頭が下がります。


この3000冊を越える書籍は、Sさんの地元である愛知県をはじめ、縁あって長野県・京都府亀岡市・兵庫県姫路市、そして、私の住む滋賀県にも届きました。滋賀県の分は、なりゆきで私の所へ宅配便で来ました。ですから、Sさんからの寄贈の本を県内で届ける役割だけですが、少しだけお手伝いいたしました。小学生向きの児童書が多かったので、日系ブラジル人の子どもたちが学ぶブラジル人学校へお届けしました。愛知郡愛荘町でがんばっておられる「コレジオ・サンタナ学園」と、東近江市の旧・甲津畑小学校校舎を拠点とする「日本ラチーノ学院」の2校です。幼児向きの絵本は、愛知郡愛荘町の「ゆたか保育園」と、東近江市の「五個荘北幼稚園」へお届けしました。昨秋、先生方の研修会に寄せていただいた2園です。同じく、中学校区研に招いてくださった「彦根市立人権福祉会館」へも、数が少なくて申し訳なかったのですが、お届けしました。


こうして、Sさんの絵本・児童書:三千数百冊は、多くのボランティアの方々に支えられて、5府県の保育教育機関にもらわれていきました。折しも今日は3月3日「桃の節句」&「耳の日」、Sさんの志が「口コミ」で引き継がれていくことを、心から願ってやみません。半年間に及ぶ、息の長い【人から人への「つながり力」】を実現された取り組みの紹介でした(私は、日曜日に仕分けをして月曜日に配達をしただけという、手伝ったのはたった2日間・・お恥ずかしい限りですが、それでも、人から人へのつながりを意識させてもらえたこと、感謝しています)。(2015年3月3日)


関学大アメフト部主将が実践する「日常生活の工夫」


2014年12月14日(日)、甲子園ボウル(アメリカンフットボール全日本大学選手権決勝)で関西学院大学が4連覇を果たしました。アメフトと言えば、試合中、コーチがタブレット端末でデータ分析しながら指示を出すことを、最も早くから採り入れてきたスポーツという印象があります。昨今では、バレーボールの国際試合でも、全日本の監督がタブレットを常時携帯している姿をよく見ます。これも大事です。


そういうIT時代になっている今日(こんにち)、関学大アメフト部主将が実践していた「日常生活における工夫」は、ついつい便利で楽なほうへ流されがちな私たちも、学ぶべきところが多いなあ(4連覇するわけです)、と感心したので紹介させてください。


各大学の運動部はもちろん、各高校の部活内の連絡でもメールやLINEを使っているところが増えてきた中で、関学大アメフト部主将は、部内の連絡にLINEなどをできるだけ使わないで、「部室の掲示板に張り出す」という昔ながらの連絡方法を実践していたとのことです。主将は「こういう積み重ねが大事・・1人ひとりが指示待ちにならずに自ら進んで動ける、そんな自主性のあるアメフト部を目指した」そうです。関学大アメフト部内では、まず部員同士の会話が増えたでしょうね。200人を越える関学大アメフト部を束ねるには、LINEで連絡をしたほうが便利で(楽で)手っ取り早いのは十分承知の上で、あえて意図的に「部室の掲示板に張り出す」ことを選択したのが、主将の言葉から伝わってきます。どんなに練習を積み重ねても、試合では想定外のことが起こるので、その場で瞬時に状況判断して、各自とっさの対応ができるアメフト集団になってほしい、という主将の願いを込めた「部室の掲示板」には考えさせられました。


私たちを取り巻く自然や社会の状況は、ある日、突発的に変わる可能性が、以前より格段に大きくなってきました。だからこそ、デジタル的なコミュニケーション手段(LINE,メール等)の上に安住せず、常日頃から「対話によるコミュニケーション」を身近な人と取り合うことの大切さを、お若い関学大アメフト部主将から教えてもらった気がいたします。主将の言う「想定外の時に、とっさの対応ができる」って、まさに危機管理対応そのものです。その土台として、まずは家族・近所同士で、お互いの顔を見ながらあいさつ・言葉を交わす習慣を面倒と思わずに、私自身が心がけるようにしたいと、つくづく思いました。関学大アメフト部主将さん、ありがとうございます。(2015年4月18日)


沖縄県渡名喜島で月に10日間「美容室」を開く美容師さん


2015年3月20日(金)朝日新聞朝刊2面の「ひと」という欄で、心に留まる人を紹介する記事がありました。タイトルは【沖縄の渡名喜島で「美容室」を開く福田隆俊さん(55)】です。取材をされた記者さんは【文・写真 池田良】と書いてありました。池田さん、よい記事をありがとうございます。記事の本文を紹介させてください。


『沖縄本島から北西へ60キロ、周囲12、5キロの小島「渡名喜島」。島民400人の約4割は65歳以上。観光名所もない、のどかな島だ。この島に7年前から通い、月に10日間だけ「美容院」を開いては、70人あまりの髪を整える。


茨城県内で美容室4店舗を切り盛りするやり手の美容師だった。50歳を前に多忙な生活を見つめ直そうと、1人で島巡りした。「一緒に遊ぼうよ」。フェリーで島の少年に声をかけられ、日が暮れるまで遊んだ。少年の髪の毛は伸びきっていた。島に散髪屋はなく、那覇まで片道2時間半かけていたと聞いた。


島の虜になり、ハサミを持って再訪、屋外で新聞を広げて少年たちの髪を切った。喜んでくれる姿を見て、美容室をつくろうとしたところ、「内地者には貸さない」と門前払いに。何度か通い、やっと古民家を借りることができた。


翌年、6畳2間にシャンプー台と椅子1台の「島の美よう室」を建てた。今では店内を子どもがはしゃぎ回り、お年寄りは踊っている。茨城の店は2人の美容師の娘に託して毎月、島へ通う。娘は「顔が黒くなった」と笑う。


島では「お帰り」と声をかけられる。サービス料は本土の半額以下で、交通費を考えると「大赤字」。でも、悪天候で通えないと不安になる。「パーマがすぐにほどけてしまう。おばぁが待っている」』


記事は以上です。私は、この記事を読んで、人から人への「あったかさ」を分けてもらった気持ちになりました。福田隆俊さんが「島の美よう室」を7年間も続けておられること、そんな型破りな内地者を受け入れられた「渡名喜島」のみなさんの懐深さ、今では「島の美よう室」が子どもやお年寄りの交流の場になっていること、そうして「渡名喜島」に毎月通うことが福田隆俊さんにとって、かけがえのない生き甲斐になっていること、それを池田良さんが記事にされたこと・・『「あったかさ」は人から人へつながる』という鎌田實ドクターの言葉を思い出しました。


福田隆俊さんは、どうやら私と同年齢のようですが、私の7年前と言えば、脳梗塞のリハビリをしていた頃でしょうか。福田隆俊さんの行動力を思うと、自分がちっちゃく感じますが、自分の甲斐性でできることを地道にやっていこうと、改めて再確認する機会になりました。感謝します(2015年7月4日)


エルトゥールル号遭難事故:紀伊大島でのトルコ人救助1890年→イラン・イラク戦争:トルコ航空による日本人救出1985年


和歌山県串本町が主催された、エルトゥールル号遭難慰霊碑前での追悼式典に駐日トルコ大使が出席されたことを報じるニュースを思い出し、和歌山県串本町観光協会ホームページを閲覧してみました。2015年はエルトゥールル号遭難から125周年という節目の年だったそうです。串本町観光協会ホームページに、1890年9月16日のトルコ軍艦「エルトゥールル号」遭難について次のように掲載されていましたので、抜粋して紹介させてください。


トルコ軍艦「エルトゥールル号」遭難


>明治22年オスマン帝国(中略)巡洋艦「エルトゥールル号」(中略)。翌23年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。日本に滞在すること3ヶ月、日本帝国の国賓として扱われ、9月14日横浜港を出発し、イスタンブールへの帰路に就いた。


>明治23年9月16日、エルトゥールル号は熊野灘に差しかかった。(中略)数百年来、海の難所として知られ、(中略)同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には沈没してしまいました。


>地元住民の献身的な救助活動(中略)580余名が遭難、69名が救助された。かくして、トルコと旧大嶋村樫野(串本町)との友情と友好関係が現在まで続くこととなるのです。


トルコとの友好関係


>後年になって、現在の慰霊碑が建立され、トルコと串本町の友好の印として記念館が近年建設されました。長年に渡り(中略)清掃されており、島内の小学校3校が統合された今も、大島小学校の児童達や地元の人達により、いつも綺麗に手入れされています。


>また、節目の年には、トルコ本国からトルコ海軍の艦船が訪れ、駐日トルコ大使などを招いて慰霊祭が催されます。


日本人216名を救ったトルコ航空機


>イラン・イラク戦争が始まった、1985年3月17日、(中略)「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」(中略)日本人はパニックに陥った。


>そこに1機のトルコ航空の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。タイムリミットの、1時間15分前であった。(中略)元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです


>※この事は、あまり日本人に知られていません。


トルコ記念館


>エルトゥールル号の遭難の悲劇を機に犠牲者の慰霊を通じて串本町とトルコ国との交流が始まり(中略)。トルコ記念館は、トルコ国との友好の証として、今後一層、日ト親善の契りを深めると共に、国際的な友愛の精神を広く伝えることを目的として、建設されたものです。


>館内には遭難したエルトゥールル号の模型や遺品、写真等が展示されており、遭難事故当時の様子を知ることができます。


トルコ軍艦遭難慰霊碑(全文略)


抜粋は以上です。全文は串本町観光協会HPをご覧ください。


1890年、紀伊大島島民のみなさんによるエルトゥールル号乗組員69名の救出活動が、トルコの学校の教科書に載ったり、95年後の1985年、トルコ政府とトルコ航空機による日本人216名(イラン・イラク戦争時のテヘラン在留邦人)救出につながっていたと知らなかったこと、恥ずかしい限りです。95年の時を経た2つの出来事は、日本・トルコ合作映画「海難1890」(2015年12月5日公開)にもなりました。


公開されて間もなく映画を観に行き、涙腺がゆるゆるでした。1890年、島民総出で69名の救出活動及び多くの犠牲者の手厚い埋葬に全力をあげた紀伊大島のみなさんと、1985年、テヘラン空港で日本人216名にトルコ航空の座席を譲ってくださったトルコ人のみなさんが、手を差し伸べる真心がズーンと伝わってくる映画でした。自分ら(紀伊大島では台風で日々の暮らしの糧がぎりぎり、テヘラン空港ではトルコの人々も自国への避難がひっ迫)が大変な状況にもかかわらず・・です。


串本町では、紀伊大島にトルコ軍艦遭難慰霊碑を建立し(1891年建立、1929年拡張)5年毎に追悼式典を続けてこられたり、1974年(S49年)にトルコ記念館を開館したり、トルコの2市町(S39年からヤカケント町、H6年からメルスィン市)と姉妹提携されるなど、地道にトルコ国民のみなさんとの友好親善交流を続けてこられたのですね。国と国との友好を築く根幹を教えていただき、ありがとうございます。


また、1985年当時のイラン駐在の野村豊 日本大使の要請を受けた、イラン駐在のイスメット・ビルセル トルコ大使は次のように快諾されたとのことです。


わかりました、ただちに本国に救援を求めて救援機を派遣させます。かつてのエルトゥールル号の事故で日本の方々がしてくださった献身的な救助活動を、今も我々は忘れてはいません」と。人を動かし、国を動かすものとは何か、を学ばせてもらいました。


何よりも、串本町観光協会HPを直接ご覧になることをオススメしますし、チャンスがあれば映画「海難1890」をぜひ鑑賞なさってください。私も、いつか和歌山県串本町のトルコ記念館を訪れてみたいものです。(2015年12月20日)


和歌山県串本町観光協会HP


http://www.kankou-kushimoto.jp/miryoku/torukokinenkan.html


関連ページ


元気の力「絆の形」【こんな日本人も】ハイチ・ベラルーシ・イスラエル・パレスチナ・中東・リトアニア・極東・ミャンマー,鳥取・京都・岩手・福岡・福井・大阪・島根など【こんな日本・中国・韓国の人も】東京・大阪

http://sg2takaboo.exblog.jp/24898208/




by takaboo-54p125 | 2016-09-01 05:39 | 保育・教育