2015年12月9日(水)朝日新聞朝刊2面の連載記事「ひと」は、「ミャンマーの若者を支援し続ける元日本兵 今泉清詞さん」(新潟県生まれ・埼玉県在住)でした。


その記事によれば、92才の今泉清詞さんは、ビルマ(現ミャンマー)のインパール作戦に従軍した元日本兵でした。そのインパール作戦で戦死した、私の母の兄と、たぶん同じ年ぐらいではないでしょうか。記事の中ほどをぜひ紹介させてください。


『(第1・2段落省略)1989年、「ビルマ奨学会」を立ち上げた。(中略)


きっかけは、慰霊のために現地を訪れたときの体験だ。戦争中は現地の住民らから食料や家畜を徴発(軍が物資を強制的に取り立て)し、田畑を踏み荒らした。石を投げられても仕方ないと覚悟したが、行く先々で一緒に手を合わせ、温かく迎えてくれる人たちがいた。「何としても恩返しを」と心に決めた。


将来を担う若者を支援したいと、日本に来たミャンマー人留学生を毎年10人選び、月4万円を2年間支給した(全額返済不要)。その数は、約20年で計178人。奨学会はその後、現地の学生を支援する形になり、いまも資金援助を続ける。(以下略)』


記事の最後は、今泉清詞さんが最も大切にされている人生訓で結ばれていました。


『かけた情は水に流して、受けた恩は心に刻む』


無念の戦死だったであろう、体が丈夫じゃなかった伯父も、きっと今泉清詞さんが今ミャンマーの若者を支援でしておられることに、拍手をおくっているのではないでしょうか。朝日新聞の「ひと」は、なかなかよい記事が多いと思います。この今泉清詞さんの記事も、図書館などで全文を直接読まれることをオススメします。


by takaboo-54p125 | 2015-12-27 05:20 | 国際社会における日本

半年ほど前、和歌山県串本町が主催された、エルトゥールル号遭難慰霊碑前での追悼式典に駐日トルコ大使が出席されたことを報じるニュースを見ました。それを思い出し、和歌山県串本町観光協会ホームページを閲覧してみました。2015年はエルトゥールル号遭難から125周年という節目の年だったそうです。串本町観光協会ホームページに、1890年9月16日のトルコ軍艦「エルトゥールル号」遭難について次のように掲載されていましたので、抜粋して紹介させてください。


トルコ軍艦「エルトゥールル号」遭難  


>明治22年オスマン帝国(中略)巡洋艦「エルトゥールル号」(中略)。翌23年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。日本に滞在すること3ヶ月、日本帝国の国賓として扱われ、9月14日横浜港を出発し、イスタンブールへの帰路に就いた。


>明治23年9月16日、エルトゥールル号は熊野灘に差しかかった。(中略)数百年来、海の難所として知られ、(中略)同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には沈没してしまいました。


>地元住民の献身的な救助活動(中略)580余名が遭難、69名が救助された。かくして、トルコと旧大嶋村樫野(串本町)との友情と友好関係が現在まで続くこととなるのです。


トルコとの友好関係


>後年になって、現在の慰霊碑が建立され、トルコと串本町の友好の印として記念館が近年建設されました。長年に渡り(中略)清掃されており、島内の小学校3校が統合された今も、大島小学校の児童達や地元の人達により、いつも綺麗に手入れされています。


>また、節目の年には、トルコ本国からトルコ海軍の艦船が訪れ、駐日トルコ大使などを招いて慰霊祭が催されます。


日本人216名を救ったトルコ航空機


>イラン・イラク戦争が始まった、1985年3月17日、(中略)「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」(中略)日本人はパニックに陥った。


>そこに1機のトルコ航空の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。タイムリミットの、1時間15分前であった。(中略)元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです


>※この事は、あまり日本人に知られていません。 


トルコ記念館  


>エルトゥールル号の遭難の悲劇を機に犠牲者の慰霊を通じて串本町とトルコ国との交流が始まり(中略)。トルコ記念館は、トルコ国との友好の証として、今後一層、日ト親善の契りを深めると共に、国際的な友愛の精神を広く伝えることを目的として、建設されたものです。


>館内には遭難したエルトゥールル号の模型や遺品、写真などが展示されており、遭難事故当時の様子を知ることができます。


トルコ軍艦遭難慰霊碑


(全文略)  


抜粋は以上です。全文は串本町観光協会HPをご覧ください。


1890年、紀伊大島島民のみなさんによるエルトゥールル号乗組員69名の救出活動が、トルコの学校の教科書に載ったり、95年後の1985年、トルコ政府とトルコ航空機による日本人216名(イラン・イラク戦争時のテヘラン在留邦人)救出につながっていたと知らなかったこと、恥ずかしい限りです。95年の時を経た2つの出来事は、日本・トルコ合作映画「海難1890」(2015年12月5日公開)にもなりました。


公開されて間もなく映画を観に行き、涙腺がゆるゆるでした。1890年、島民総出で69名の救出活動及び多くの犠牲者の手厚い埋葬に全力をあげた紀伊大島のみなさんと、1985年、テヘラン空港で日本人216名にトルコ航空の座席を譲ってくださったトルコ人のみなさんが、手を差し伸べる真心がズーンと伝わってくる映画でした。自分ら(紀伊大島では台風で日々の暮らしの糧がぎりぎり、テヘラン空港ではトルコの人々も自国への避難がひっ迫)が大変な状況にもかかわらず・・です。


串本町では、紀伊大島にトルコ軍艦遭難慰霊碑を建立し(1891年建立、1929年拡張)5年毎に追悼式典を続けてこられたり、1974年(S49年)にトルコ記念館を開館したり、トルコの2市町(S39年からヤカケント町、H6年からメルスィン市)と姉妹提携されるなど、地道にトルコ国民のみなさんとの友好親善交流を続けてこられたのですね。国と国との友好を築く根幹を教えていただき、ありがとうございます。


また、1985年当時のイラン駐在の野村豊 日本大使の要請を受けた、イラン駐在のイスメット・ビルセル トルコ大使は次のように快諾されたとのことです。 


わかりました、ただちに本国に救援を求めて救援機を派遣させます。かつてのエルトゥールル号の事故で日本の方々がしてくださった献身的な救助活動を、今も我々は忘れてはいません」と。人を動かし、国を動かすものとは何か、を学ばせてもらいました。なお、当時のトルコ航空機乗務員のみなさんは、2006年(H18年)に、春の叙勲を受けておられます。


何よりも、串本町観光協会HPを直接ご覧になることをオススメしますし、チャンスがあれば映画「海難1890」をぜひ鑑賞なさってください。私も、いつか和歌山県串本町のトルコ記念館を訪れてみたいものです。


和歌山県串本町観光協会HP


http://www.kankou-kushimoto.jp/miryoku/torukokinenkan.html


by takaboo-54p125 | 2015-12-20 05:02 | 国際社会における日本

2015年10月頃、理髪店で読んだスポーツ新聞に、おおよそ次のような記事がありました。


「第二次世界大戦中、本国の指示に反して難民へのビザを発給し続け、推定6千人の命を救ったと言われる日本人外交官の半生を描いた映画「杉原千畝」の公式試写会がリトアニアであり、主演夫妻を演じた俳優の唐沢寿明さんと小雪さんが出席した‥」


記事は、こんな感じだったように思います。この杉原千畝(すぎはらちうね)氏の勇気ある行いは、かつて聞いた覚え(10年前の読売テレビのドラマだったような、かすかな記憶)があり、杉原千畝氏の役を私の好きな俳優である唐沢寿明さんが演じて映画化されるということで、とても強く印象に残りました。


それで、インターネットでちょこっと調べてみると、映画:終戦70年特別企画「杉原千畝 SUGIHARA CHIUNE」の公開が本日12月5日からだと知って、びっくりしました。映画の公式サイトには、「戦後70年を経て明かされる真実の物語」とありました。


杉原千畝氏(1900~1986)は、リトアニアのカウナス領事館の外交官(1939~1940年)で、迫害から逃れてきた多くのユダヤ系難民に対し、外務省からの指示に反して1940年に数多くのビザ(日本通過査証)を、それこそ命がけで発行し続けて、推定約6千人を救った実在の人物です。救われた人々の「命のビザ」とも言われています。この訓命違反で、帰国後は外務省に居られなくなり、退職を余儀なくされます(戦後なのに)。


実際に杉原氏からビザ発行を受けた難民だった方々が真実(命令に背いて1940年にビザ発行した事実)を知ったのは、29年後の1969年でした。それまでは杉原千畝氏の存在すら、問い合わせても公的には「該当者なし」扱いだったようです。そして、1986年にご逝去されました。


遅すぎましたが、故・杉原千畝氏は2000年になって、ようやく政府・外務省から公式に名誉回復されます(外務大臣の演説で)。私たちは、日米開戦直前に、こんな日本人がいたことを忘れたくないものです。海外では「日本のシンドラー」と呼ばれているそうです。主演の唐沢寿明さんも「教科書に載せてほしい、世界に誇れる人だから」とコメントされたとのことです。


なお、杉原千畝氏にビザ発行してもらったリトアニアから、シベリア鉄道で極東までたどり着くことができた難民を、これまた独断で日本へ渡航させたのが、ウラジオストク領事館の根井三郎氏で、日本に渡航できた難民のビザ延長許可のため尽力したのが小辻節三氏だということも、同時に知ることができ、うれしく思います。この3人に、根井三郎氏に説得された天草丸(ウラジオストク港→敦賀港)の船長さんや、奔走する小辻節三氏に助言した松岡洋右外務大臣も加えると5人でしょうか。


自由にものが言えなかったあの時代に、人道的見地から少なくとも3人の日本人による難民救済のリレーが行われた事実は、同じ日本人として胸に刻んでおきたいと思いました。3人とも、自分の置かれた立場で、自分の良心(人道的見地)に基づき、自分が人として正しいと判断したことを実行されたのでしょう。


杉原千畝氏が生まれ育った岐阜県加茂郡八百津町には、杉原千畝記念館があるので、いつか訪れてみたいものです。前段で「3人の日本人による難民救済のリレー」と書きました。しかし、ポーランドの隣国でバルト海に面したリトアニアと、極東のウラジスオストクと、日本国内という、遠く離れた3人が連絡を取り合った形跡は皆無(不可能)だったことも記しておきます。


【12月9日追加】映画、観に行ってきました。杉原千畝氏と根井三郎氏は同じ学校の卒業生で、校訓「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして、報いを求めぬよう」を忘れなかった2人は、難民の命を救うことを最優先したのでしょう(自分の立場が悪くなるのを覚悟して)。普段エンディングになるとすぐ退席する私が、エンディングの音楽を聴きながら、キャストやスタッフなどを紹介する画面も最後まで見て、それからしばらくの間も座ったまま余韻に浸ってしまいました。命を救われた人々の子孫は今、世界中で約4万人おられるそうです。もう一度観に行きたいくらい・・・そんな映画でした。


by takaboo-54p125 | 2015-12-05 05:00 | 国際社会における日本

あれは、高校3年大学入試前1月、英語の授業でした。M先生がプリントを配りました。それは、1963年、アメリカ合衆国での公民権運動:ワシントン大行進におけるマーチン・ルーサー・キング牧師の演説文「I have a dream.(私には夢がある)」の一部でした。英語がとても苦手だった私も、この時だけは一生懸命やった記憶があります。ですから、自分でも意外なのですが、わりと覚えているのです。教科書はすぐ処分しましたが、そのプリントだけは奇跡的に残っていました。私がとりわけ好きなのは、第18段落前後の、次の文章です。その英文に、万が一、誤字脱字がございましたら、ご容赦ください。


「I have a dream that one day this nation will rise up, and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal..." 


 I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave-owners, will be able to sit down together at the table of brotherhood. 


 I have a dream that one day even the State of Mississippi, a state sweltering with the heat of injustice, sweltering with the heat of oppression, will be transformed into an oasis of freedom and justice. 


 I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character. 


 I have a dream today!」


以上です。日本語に訳すと、次のようになるのでしょうか。


『私には夢があります。いつの日か、この国の人々が立ち上がり、「すべての人間は生まれながらにして平等であることを、自明の真理だと我々は信じる」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢が。


私には夢があります。いつの日か、ジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちと、かつての奴隷所有オーナーの子孫たちが、兄弟姉妹の間柄として同じテーブルにつくことができるという夢が。


私には夢があります。いつの日か、差別と抑圧という炎熱の暑さにうだって苦しむミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスへと生まれ変われる日がくるという夢が。


私には夢があります。いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色ではなく、人格そのものの中身によって評価される国で暮らせるようになるという夢が。


今日、私には夢があるのです!』


以上です。ちょうど人権週間(12月4日~10日)が始まりました。40年近く昔の高校:英語の授業を思い出し、思い出ししながら、辞書も引きつつ、いろんな人の和訳も参考にして書いてみました。もしも、訳し方が間違っていたら、すみません。


ところで、去る8月23日NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で「ゆるすことは、ふみ出すこと・・」というセリフがありました。人と人も、国と国も、それが「和解へ向けての1歩」だということなのでしょう。そのためには、過去の過ちと相手の受けた傷を忘れないこと、自らの成功に対しては傲慢にならず謙虚であること、そして、お互いが理解し合い歩み寄るための努力を惜しまない人や国こそが、世間でも国際社会でも結果として尊敬されるであろうこと、そう思わせてくれた小田村伊之助・長州藩士の「ゆるすことは、ふみ出すこと・・」は、キング牧師の言葉と通じるところがあると感じましたが、いかがでしょうか。


by takaboo-54p125 | 2015-12-04 05:15 | 国際社会における日本

今朝の朝日新聞1月20日(木)2面の「ひと」で、次のような記事が載っていました。紹介します。子どもたちにも話してあげてほしいなと思いました。


ハイチで仮設住宅の建設を引っ張る大野拓也さん(37)


ミスター・シェルター。1年前の大地震で推定23万人が犠牲になったハイチで、こう呼ばれている。仮設住宅を建てるエキスパートだ。


発生後、電話が次々にかかってきた。「ハリケーンに耐える屋根の工法は」「熱帯で木材の耐久性は」


その時は、インド洋大津波の被災地スリランカにいた。災害や紛争で住居を失った人々を支える国際移住機関の職員として、5年間で2万戸の仮設を建てた経験が、似た気候のハイチでも求められた。


ほどなくして現地入り。数千のテントがひしめく広場は生ゴミが散乱し、異臭が漂っていた。


まず、設計図を引く。地元業者が簡単に建てられるように現地の工法を採用。耐久性と費用のバランスから、壁は厚さ6ミリの合板、屋根は0,4ミリのトタンと決めた。


工事を始めると、子どもたちが集まってきた。柱が立つと笑顔に変わり、屋根ができると中に入りたがる。いま3千戸に1万5千人が暮らす。‥住民は喜んでくれた。


建築学の博士号をもつ。大阪大3回生の冬に阪神大震災に遭い、住居の大切さを痛感した。2005年に大学院を修了し、就職までの3ヶ月契約でスリランカへ。だが、仮設にうれし泣きし、踊って喜ぶ人々に出会い、正規の職員になった。


復興2年目に入ったハイチでは、まだ数十万人がテントで生活する。年末年始を大阪で過ごし、とんぼ返りした。』


以上です。よけいなコントは書きません。ぜひ、子どもたちに話してあげてください。こんな日本人がいるということを。


by takaboo-54p125 | 2011-01-20 20:34 | 国際社会における日本