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高齢の母から聞いた昔話(昭和16~20年) その3 戦時中のエピソード

昭和16年まで小学校は尋常高等小学校
昭和16年からは国民学校と学校名を変更することで国威発揚したのかも
秦川東小学校では荒れ地の開墾をしてサツマイモ畑に‥その後 地主さんたちが果樹園に‥今はメガソーラーかな

彦根市にある祖母の実家近くの田んぼに爆弾の落ちた穴があるのを見物に行ったとのこと
おそらくB29爆撃機が 帰路の途中で機体を軽くするために投下したのではないかと推測します

天皇陛下のお召し列車が通過する時刻に間に合うよう 学校単位で徒歩で国鉄線路まで行った時
列車が通過する間は みんな最敬礼 それを見張っている先生がいたとしたら 最敬礼してないのでは‥

自転車で八木荘村から帰る途中に空襲警報発令(サイレン音)‥田んぼ道で隠れる場所がない状況でのエピソード
米軍戦闘機が1機下りてきたので あわてて稲の「はさ掛け」に飛び込んで難を逃れた‥危機一髪だったかも‥

長兄がミャンマーのインパール作戦で戦死‥白木の箱が届いたので中を開けたら 石ころがひとつ入っていた
これって どこで拾った石ころ?‥まさか激戦地のミャンマーはあり得ない‥町役場の人が拾えるところかな

終戦の玉音放送(ラジオ)は「耐え難きを耐え 忍び難きを忍び」で 敗戦したことを理解できたみたい
予科練志望の次兄は昭和20年8月15日は ショックで熱を出し寝込む‥勝てると思い込んでいたのかも
両親はホッとしたみたいだったと‥空襲警報だけでも なんとなく苦戦→負け戦の予感がしてたのかな

なお 父は当時の満州・安東市(今の中国東北地方・丹東市)生まれ&育ち→戦後の「引揚者」の1人です
鴨緑江(ヤールー川)河口にある朝鮮半島との国境の街になります‥戦災孤児にならなかったのは運かな
その理由は鴨緑江の大橋をてくてく歩く幼い父に 人力車の車夫さんが声をかけ乗せ帰ってくれたから
もし そこで車夫さんに会ってなかったら今頃は‥いやいや歴史に「‥たら‥れば」はありませんよね


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by takaboo-54p125 | 2024-12-15 05:03 | 在宅介護