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第二次大戦中、リトアニアで難民を救った外交官「杉原千畝 SUGIHARA CHIUNE」、ウラジオストクの外交官「根井三郎」ら、難民に手を差し伸べた日本人

2015年10月頃、理髪店で読んだスポーツ新聞に、おおよそ次のような記事がありました。


「第二次世界大戦中、本国の指示に反して難民へのビザを発給し続け、推定6千人の命を救ったと言われる日本人外交官の半生を描いた映画「杉原千畝」の公式試写会がリトアニアであり、主演夫妻を演じた俳優の唐沢寿明さんと小雪さんが出席した‥」


記事は、こんな感じだったように思います。この杉原千畝(すぎはらちうね)氏の勇気ある行いは、かつて聞いた覚え(10年前の読売テレビのドラマだったような、かすかな記憶)があり、杉原千畝氏の役を私の好きな俳優である唐沢寿明さんが演じて映画化されるということで、とても強く印象に残りました。


それで、インターネットでちょこっと調べてみると、映画:終戦70年特別企画「杉原千畝 SUGIHARA CHIUNE」の公開が本日12月5日からだと知って、びっくりしました。映画の公式サイトには、「戦後70年を経て明かされる真実の物語」とありました。


杉原千畝氏(1900~1986)は、リトアニアのカウナス領事館の外交官(1939~1940年)で、迫害から逃れてきた多くのユダヤ系難民に対し、外務省からの指示に反して1940年に数多くのビザ(日本通過査証)を、それこそ命がけで発行し続けて、推定約6千人を救った実在の人物です。救われた人々の「命のビザ」とも言われています。この訓命違反で、帰国後は外務省に居られなくなり、退職を余儀なくされます(戦後なのに)。


実際に杉原氏からビザ発行を受けた難民だった方々が真実(命令に背いて1940年にビザ発行した事実)を知ったのは、29年後の1969年でした。それまでは杉原千畝氏の存在すら、問い合わせても公的には「該当者なし」扱いだったようです。そして、1986年にご逝去されました。


遅すぎましたが、故・杉原千畝氏は2000年になって、ようやく政府・外務省から公式に名誉回復されます(外務大臣の演説で)。私たちは、日米開戦直前に、こんな日本人がいたことを忘れたくないものです。海外では「日本のシンドラー」と呼ばれているそうです。主演の唐沢寿明さんも「教科書に載せてほしい、世界に誇れる人だから」とコメントされたとのことです。


なお、杉原千畝氏にビザ発行してもらったリトアニアから、シベリア鉄道で極東までたどり着くことができた難民を、これまた独断で日本へ渡航させたのが、ウラジオストク領事館の根井三郎氏で、日本に渡航できた難民のビザ延長許可のため尽力したのが小辻節三氏だということも、同時に知ることができ、うれしく思います。この3人に、根井三郎氏に説得された天草丸(ウラジオストク港→敦賀港)の船長さんや、奔走する小辻節三氏に助言した松岡洋右外務大臣も加えると5人でしょうか。


自由にものが言えなかったあの時代に、人道的見地から少なくとも3人の日本人による難民救済のリレーが行われた事実は、同じ日本人として胸に刻んでおきたいと思いました。3人とも、自分の置かれた立場で、自分の良心(人道的見地)に基づき、自分が人として正しいと判断したことを実行されたのでしょう。


杉原千畝氏が生まれ育った岐阜県加茂郡八百津町には、杉原千畝記念館があるので、いつか訪れてみたいものです。前段で「3人の日本人による難民救済のリレー」と書きました。しかし、ポーランドの隣国でバルト海に面したリトアニアと、極東のウラジスオストクと、日本国内という、遠く離れた3人が連絡を取り合った形跡は皆無(不可能)だったことも記しておきます。


【12月9日追加】映画、観に行ってきました。杉原千畝氏と根井三郎氏は同じ学校の卒業生で、校訓「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして、報いを求めぬよう」を忘れなかった2人は、難民の命を救うことを最優先したのでしょう(自分の立場が悪くなるのを覚悟して)。普段エンディングになるとすぐ退席する私が、エンディングの音楽を聴きながら、キャストやスタッフなどを紹介する画面も最後まで見て、それからしばらくの間も座ったまま余韻に浸ってしまいました。命を救われた人々の子孫は今、世界中で約4万人おられるそうです。もう一度観に行きたいくらい・・・そんな映画でした。


by takaboo-54p125 | 2015-12-05 05:00 | 国際社会における日本