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教材「弁当の日」「雪とパイナップル」「アハメドくんのいのちのリレー」「人のあったかさの連鎖」「にもかかわらず」「いのちをいただく」「おばあさんの手紙」

【空気は読まない】


「空気は読まない」鎌田實(みのる)Dr.著(集英社)は、心を揺さぶられ温かくなる国内外(日本、アジア、ヨーロッパなど)のエピソードがぎっしりつまっている本です。直接、本書を読まれることをオススメします。


鎌田さんは、5章で次のように語っておられます。
あったかさは、あったかさの連鎖を生む。‥あったかさは空気感染する。‥一度感染すると、人のあたたかさに敏感になる。小さなあたたかさもすかさずキャッチして、感動できるようになる。‥心をあったかくして、いい人間関係を築いていけば、ストレスが減り、体の免疫力も上がる。心と体はつながっているのだ。‥あたたかさに出会うたび、ぼくらはうれしくなる。元気になる。ほかの誰かを、うれしい気持ちにさせたくなる。元気にしてあげたくなる。・・絶滅させられない、根性のある、あきらめない「あったかさ」を広げたいと思っている。』


こうして「空気は読まない」鎌田實(みのる)Dr.著(集英社)を読んで、「『弁当の日』の奇跡」に目がくぎ付けになったのが2012年の8月でした。私は早速、お盆休みに大阪から帰省してきた弟夫妻に「『弁当の日』の奇跡」の話を教えてあげようと、上記のブログ記事をプリントアウトして、渡しました。そうしたら物々交換みたいに、義妹(弟の奥さん)がファイルにはさんだ資料を渡してくれました。ファイルから資料を出すと、「つくる!たべる!かたづける!弁当の日」というタイトルが目に入りました。なんと、同じ実践について、私は鎌田さんの著書から、義妹は「弁当の日」を始めた仕掛け人:竹下和男さんの講演から、それぞれ心を動かされ、お互いに伝え合おうとしていたのです、それも同じ日に・・です。不思議な気持ちです。


【義妹が見せてくれた「弁当の日」資料】


義妹の資料には、竹下和男校長先生が卒業生に贈った言葉も載っていました。上記の5つ以外の言葉を紹介します。
『あなたたちは、「弁当の日」を2年間経験した最初の卒業生です。・・
・手順よくできた人は、給料をもらえる仕事についた時にも、仕事の段取りのいい人です。
・食材がそろわなかったり、調理を失敗した時に献立の変更をできた人は、工夫できる人です。
・かすかな味の違いに調味料や隠し味を見ぬいた人は、自分の感性を磨ける人です。
・旬の野菜や魚の、色彩・香り・触感・味わいを楽しめた人は、心豊かな人です。
・1粒の米・1個の白菜・1本の大根の中にも「命」を感じた人は、思いやりのある人です。
・スーパーの棚に並んだ食材の値段や賞味期限(消費期限)や原材料や産地を確認した人は、賢い人です。
・食材が弁当箱に納まるまでの道のりに、たくさんの働く人を思い描けた人は、想像力のある人です。
自分の弁当を「美味しい」と感じ、「嬉しい」と思った人は、幸せな人生が送れる人です。
・シャケの切り身に、生きていた姿を想像して「ごめん」が言えた人は、情け深い人です。
・登下校の道すがら、稲や野菜が育っていくのを嬉しく感じた人は、慈しむ心のある人です。
・「弁当の日」で仲間がふえた人、友だちを見直した人は、人と共に生きていける人です。
・調理をしながら、トレイやパックのゴミの多さに驚いた人は、社会を良くしていける人です。
・自分が作った料理を喜んで食べる家族を見るのが好きな人は、人に好かれる人です。
・家族がそろって食事をすることを楽しいと感じた人は、家族の愛に包まれた人です。
先生たちは、こんな人たちに成長してほしくって2年間取り組んできました。・・』


2001年に竹下和男さんが校長を務める小学校で始めた「弁当の日」の取り組みは、2012年現在、すでに732校に広がり、1000校を越える小中学校で取り組まれるようになっているそうです。資料には、『「弁当の日」の真髄は、親子の絆、家族団らんの大切さを実感し、人の役に立つことの喜びを子どもたちが経験し、自立すること』とも、書いてありました。


【人は一瞬で変われる】


私は、鎌田さん(お医者さん)の著書「人は一瞬で変われる」の存在を、ブログを通じて、Eメールをやり取りしている山形県の学校のS先生から教えてもらいました。それで、「人は一瞬で変われる」を書店で予約し、図書館で、この本を見つけました。山形県から滋賀県へ温かな空気を送っていただき、元気玉までもらいました。2011年8月に滋賀県まで私のつたない話を聞きに来てくださった山形県のS先生、ありがとうございました。本書「空気は読まない」を直接読まれることをオススメします。


【教室の空気をかえる実践:山形県のS先生】


山形県のS先生(私よりずっと若く、子どもに共感的に向き合い、創意工夫を重ねて、温かい空気を子どもたちへ伝える実践家)の取り組みで、ぜひ先生方にも取り入れてほしいことががあります。S先生は、勤務されている学校で「関わりことば」も大切にしておられます。毎日、「関わりことば」を子ども1人ひとりの心に届けようと意識されているのでしょう。そんなS先生の温かな言葉を子どもたちも真似しながら、他の先生に接したり、友だちに接したりするようになってきたのです。そうしたら、保護者の方からも、


うちの子の言葉が柔らかくなった」という、うれしい言葉をもらえるようになってきたという、なんともステキな話です。「教師から子どもたちへ『安心できる空気・心地よい空気』は伝染します」と、S先生のEメールには書いてありました。「うちの子の言葉が乱暴になった」とこぼす保護者が少なくないご時世だけに、きわめて貴重な実践だと感じました。


【感動が少年を変えた】


山形県のS先生から紹介してもらった「人は一瞬で変われる」鎌田實(みのる)Dr.著(集英社)に「感動が少年を変えた」という実話がのっていました。


鎌田實(みのる)さんが読売新聞・連載の「鎌田實の見放さない」を、茨城県:中学1年生:男子生徒の読んだ感想が、鎌田さんの手元に届いたと書いてありました。その部分だけ紹介します。


『「ぼくは引き寄せられるように本屋へ行って、この本を買いました。」
少年の言う「この本」とは、ぼく(鎌田さん)の絵本『雪とパイナップル』のことだ。日本の医師や看護師たちが、チェルノブイリ原発事故の放射能で汚染された地域に赴き、病気を救おうとしていることに感動したという。
絵本は、実話である。放射能の影響で白血病になり骨髄移植を受けたアンドレイという少年が、敗血症になって生死をさまよった。熱と口内炎のため全く食事をとれなくなった彼は、看護師のヤヨイさんに「何なら食べられる?」と聞かれ、消え入るような声で答える。「パイナップル……」。12年の人生でたった1度口にし、家族みんなで「おいしいね」と笑い合った幸せの味だった。
それを聞いて、ヤヨイさんはパイナップルを求め、降りしきる雪の中、−20℃に凍てつく町を歩き回った。・・ベラルーシ共和国の地方都市。時は2月。パイナップルなんて見つかるはずがない。どこの店に行っても首を横に振られたが、若い日本人の看護師がパイナップルを探していると、町じゅうの噂になった。
パイナップルの缶詰を持っている現地の人がいた。噂を聞いて感動し、缶詰を病院に届けてくれた。アンドレイ少年は大喜びで、パイナップルを食べた。
奇跡が起きた。熱が下がった。敗血症が治り、命をとりとめた。
その2年後、再発した白血病は手の施しようがなく、アンドレイは短い生涯を閉じる。ぼく(鎌田さん)は、お悔やみを言いたくて、彼が住んでいた町を訪れた。大歓迎を受けた。大切な息子さんの命を守ってあげられなくて申し訳ないと思っていたのに、お父さんは仕事を代わってもらい、アパートの外に出て待っていてくれた。お母さんはパンとクッキーを焼き、熱々のロシアンティーでもてなしてくれた。お母さんのエレーナが言った。
「あるはずのないパイナップルを探して雪の町を歩き回ってくれたヤヨイさんのやさしさが、私はうれしかった。缶詰を届けてくれた人の想いが、うれしかった。人間ってすごいなあって、そのとき思ったんです。 やさしい心は人から人へ伝染していくって」
絵本で紹介したエレーナ母さんの言葉を読んで、茨城に住む少年はハッとしたという。‥…』


本書「人は一瞬で変われる」は心を揺さぶられる多くの話が載っているので、直接読まれることをオススメしますが、鎌田さんが本の中に書いておられた茨城県:中学1年生:男子生徒の感想文の結びだけは紹介させてください。


『「‥…身近にいる家族や友人を大切にすることから始めようと思います。やさしさは伝染する。この言葉を胸に、あたたかい連鎖を起こしていきたいです。」』


【雪とパイナップル】


国際医療ボランティアで72回の医師団を派遣し、6億円の医薬品・医療機器を送って、子どもの命を支える支援を続けたメンバーの鎌田實(みのる)Dr.が、アンドレイ君の死後、再びベラルーシ共和国のアンドレイ君家族の元を訪れます。その時、エレーナ母さんが鎌田さんに語ってくれた言葉を、絵本「雪とパイナップル」の中から抜粋して紹介させてください。


『私には忘れることができない人がいます。日本から、移植療法の看護を指導するために来た、ヤヨイさんという看護師さんがいたでしょう。・・ヤヨイさんが、オーバーの襟を立てて、雪の町へ出て行くのが、病院の曇った窓ガラスを透かして見えました。翌日も、ヤヨイさんは、マイナス20℃に凍った町へ出かけて行った。次の日も、ヤヨイさんは、窓の外に消えた。その時、もしかしたらって、思いました。アンドレイが、わがままを言ったからかも知れない。ヤヨイさんはパイナップルを探しに、町へ行くのだと、確信しました。無理なこと言ってゴメンなさいって、心の中で謝りました。』


『ありがたい。幸せな子だと思いました。こんなに大切に思ってくれる人がいる。日本の人が最先端の治療で、うちの息子の命を救おうとしてくれている。感謝しています。でも、あるはずのない、パイナップルを探して雪の町を歩きまわってくれた彼女のことを考えると、私は人間って、あったかいなあって思いました。』


『私は、うれしかった。人間ってすごいなあって、そのとき思ったのです。やさしい心は、人から人へ伝染していくんだって。・・雪の中を、パイナップルを探して歩いてくれた、ヤヨイさんのことが忘れられません。(中略)私の中に、忘れていたものが、よみがえってきました。それは感謝する心でした。』


『パイナップルの缶詰を缶切りでヤヨイさんが開けた時、プシューッと音がして、いろんなものが飛び出したように見えました。真心や希望が見えたような気がしました。人間のことも、命のことも、世界のことも、少し見えたような気がしました。本当にうれしかった。缶詰の中の何かから、アンドレイの命をもらったのかもしれません。パイナップルが育つ南の国の太陽が見えたような気がしました。』


『ドクターたちのことはもちろんですが、マイナス20℃の雪の町をパイナップルを探し歩いてくれた日本の女性のことを、私たち家族は、一生忘れないでしょう。パイナップルは、アンドレイにとっても、私たち家族にとっても、希望そのものでした。短い命でしたが、幸せな子だったと思います。』


以上、最愛の息子アンドレイ君を失ったエレーナ母さんが、目に涙をいっぱいためてポツリポツリと、鎌田さんへおだやかに語ってくれた言葉でした。
そして、この「雪とパイナップル」の1章「遠い旅のはじまり」に鎌田さん自身が書いておられます。
一番大切なものを失った時でも、人間は感謝することができることを知りました。言葉が違っても、歴史が違っても、文化が違っても、宗教が違っても、人間は理解しあえると・・・・・悲しみや、苦しみや、喜びを分かち合えることを、雪の中のパイナップルから教えられました。」と。
鎌田さんが「命の切なさや、大切さを考えることのできる、未来の日本を支える人たち」に贈りたくて「大人が読む絵本というカタチ」にしたかった本書「人は一瞬で変われる」は、ぜひ直接お読みください。


【アハメドくんの いのちのリレー】


医師である著者・鎌田實(みのる)さんが「あとがきにかえて」で、次のように書いておられます。抜粋しながら紹介させてください。


『5年間、ずっと気になっているパレスチナ人がいた。小さな新聞記事を読んでから、いつか会いたいと思い続けてきた人。イスラエル兵に殺された息子の臓器を、敵国の病気の子どもたちを救うために差し出したお父さん。彼の行動や想いを絵本にしたい。・・もともと、どちらかの国を一方的に責める本は書きたくなかった。・・世界中の人に、アハメドを失った悲しみを横に置いて敵国の病気の子どもたちを助けたイスマイル父さんのことを知ってもらいたい。心臓を提供してくれたイスマイルさん一家のことを、もう1つの家族として大切にし、「大人になったら自分もパレスチナの子どもの命を救い、平和の橋を架ける人間になりたい」と語るイスラエルの少女、サマハちゃんの言葉を聞いてもらいたい。・・イスマイル父さんが息子の心臓を提供してくれたことから始まった、やさしさのリレー。この「きっかけ」を忘れないために、ぼくは絵本をつくった。・・いろんな国の人たちに読んでもらいたくて、英文をつけることにした。・・紛争の絶えない憎しみの大地で見つけた希望の言葉「にもかかわらず」をキーワードにした絵本を読んだ人たちが、新しい波を起こしてくれることを祈っている。』


「にもかかわらず」


鎌田さんが、ここまで世界中を行動する原点(出発点)も書いてありました。
ぼくの父は、貧乏と、妻が重い心臓病という2つの困難をかかえていた。にもかかわらず、それを横に置いた。捨てられて行き場のないぼく(1才)をひろってくれた。「にもかかわらず」って生き方は、かっこいい。「にもかかわらず」ができるのが、人間のすごさなんだ。「にもかかわらず」には力がある。・・イスマイル父さんがおこなった「にもかかわらず」そこから、アハメド君のいのちのバトンが走り出した。平和のバトン、やさしさのバトンだ。・・』と。また、


『37才の時、パスポートをつくるために戸籍を取り寄せるまで、父と母の本当の子どもじゃないなんて思ってもみなかった。‥2人にひろわれたおかげで、ぼくのいのちはつながった。いのちのバトンは、いろんなところで、いろんなカタチでおこなわれている。アラビアの砂漠への旅は、そのことを確認するための旅でもあった。』とも。そして、


この愛の物語を、ぼくは絵本というバトンに変えて、世界のみんなにつなげたい。・・いのちのリレー。・・信じている』と締めくくってありました。私は図書館で読みましたが、本書を直接読まれることをオススメします。読売新聞で鎌田實さんの連載が続いていたということも、聞きました。


このページを書くことができましたのは、山形県の学校に勤務するS先生が、Eメールで鎌田實さんの著書「人は一瞬で変われる」を紹介してくださったおかげです。S先生、鎌田實さんの温かさを伝えてくださり、ありがとうございました。そして今、このページを読んでくださったあなたが、この「あったかさの連鎖」を誰かに届けてくださることが、さらなる「あったかさの連鎖」になることでしょう。これらの実話が、あなたから家族、友人、同僚、そして、子どもたちへのバトン・リレー「あったかさの連鎖」になったら、アンドレイ君やヤヨイさんやエレーナ母さんも、アハメド君やサマハちゃんやイスマイル父さんも、鎌田實Drも、竹下和男校長先生も、山形県の学校のS先生も、きっとうれしいやろなと思います。


「いのちをいただく」


当たり前なのに忘れがちなことを、感謝とともに思い出させてくれる作品です。


2014年9月5日(金)朝刊1面の「天声人語」前半は絵本の紹介でした。( )は私の補足です。


『しのぶ君はお父さんの仕事をかっこ悪いと思っていた。食肉センターで牛を「解き」、肉にする仕事だ。解くとは、殺すこと。小学校の社会科の授業で家の仕事を聞かれ(今は、親の仕事を授業で子どもに聞く学校はないはず)「普通の肉屋です」と答えた。


帰り際、しのぶ君を呼び止めて担任の先生は諭した。おまえ(しのぶ君)のお父さんが仕事をしないと、先生もおまえ(しのぶ君)も校長先生も会社の社長さんも、みんな肉を食べられないんだ。「すごか仕事ぞ」


食肉解体作業員だった熊本県の坂本義喜さんは、牛と目が合うのがつらくて、いつかやめようと思っていた(坂本さんはずっと葛藤し続けてこられたことが伝わってきます)。しかし、しのぶ君が「お父さんの仕事はすごかとやね」と報告するのを聞いて、やはり続けようと思った。


坂本さんのこうした話(牛を思う坂本さんの優しさと、牛のいのちをいただく有り難さ)に心動かされた福岡県の助産師、内田美智子さんが文章にし、5年前に「いのちをいただく」という絵本になった。私たちの命は肉や魚や野菜の命によって生かされている。当たり前なのに忘れがちなことを、感謝とともに思い出させてくれる作品だ。・・後略』


記事前半の紹介は、以上です。実は、私も、この「いのちをいただく」の紙芝居を2年ほど前に購入して持っています。「弁当の日」の小中学校の実践をあれこれ聞く中で知ったからです。絵本も売っていましたが、私は紙芝居を買いました。しかし、講義や子育て講演などで、他の絵本は読んだことはあるものの、紙芝居「いのちをいただく」は読んだことがありませんでした。しかし、チャンスがあれば私も読み聞かせをしたいという気持ちが、今、沸々と湧いてきました。


紙芝居「いのちをいただく」内田美智子:文、魚戸おさむ:絵、坂本義喜:原作(西日本新聞社)は、29枚の紙芝居です。みなさんも、機会があれば、絵本でも紙芝居でも、一度読んでみてください。坂本さんの体験・・葛藤・・決意に助産師さんが心をズシンと動かされ、そして、生まれた絵本と紙芝居・・なんともかとも、ええお話です。


「おばあさんの手紙」岩國哲人さんご自身の体験談


たしか2014年10月中旬頃の朝刊1面下の天声人語に載っていました。と書いた理由は、その記事を切り取って残しておいたので、今も手元にあるのですが、じつは日付をメモするのを忘れていたからです。


岩國哲人(いわくにてつんど)さんの著書を図書館で読んだことがあります。大阪生まれの島根育ちで、たいへん苦学されたそうです。日米の大手証券会社で活躍され、島根県出雲市長になられて取り組んだことを書かれた自叙伝「男が決断する時」だったような気がします。その後、衆議院議員もされて、米中韓の各大学客員教授などもなさったようです。国際金融界から出雲市長を経て政界まで渡り歩く大胆な人生を歩まれた方、という印象があります。しかし、この「おばあさんの新聞」というエピソードは、初耳でした。次のような記事(少年てっちゃん=岩國哲人氏)です。


『早くに父が亡くなり、家には新聞を購読する余裕がなくなった。好きなのでなんとか読み続けたい。少年は新聞配達を志願した。配った先の家を後で訪問し、読ませてもらおうと考えたのだ。


元島根県出雲市長で衆院議員を務めた岩國哲人さん(78)の思い出だ。日本新聞協会の新聞配達エッセーコンテストの大学生・社会人部門で今年、最優秀賞になった。題して「おばあさんの新聞」


小学5年の時から毎朝40軒に配った。読み終わった新聞を見せてくれるおじいさんがいた。その死後も、残されたおばあさんが読ませてくれた。中3の時、彼女も亡くなり、葬儀に出て実は彼女は字が読めなかったと知る。「てっちゃん」が毎日来るのがうれしくて(おばあさんは新聞を)とり続けていたのだ、と。涙が止まらなくなった……


岩國さんはこれまで新聞配達の経験を語ってこなかった。高校の同級生で長年連れ添った夫人にも。しかし、今回、おばあさんへの感謝の気持ちを表す好機と思い、応募した。「やっとお礼が言えて、喜んでいます」。きのう電話口で岩國さんはそう話した。(以下略)』


岩國哲人さんは、人生で忘れられない「おばあさんの新聞」の体験を、市長時代にも、衆議院議員時代にも、一切だれにも語らず、心の中にそっとしまっておられました。それだけで尊敬してしまいます。第一線から退いた今、エッセーに綴ることで、おばあさんへの感謝の気持ちを伝えられたのでしょう。60年以上、ずっと心の中で大事に大事にあたためておられた・・なんとも言えず心がじんわりと温まり、読み手までもらい泣きしそうなエピソードだと、感銘を受けました。(以下本文)


おばあさんの新聞  岩國 哲人(78歳)東京都(敬称略)


 一九四二年に父が亡くなり、大阪が大空襲を受けるという情報が飛び交う中で、母は私と妹を先に故郷の島根県出雲市の祖父母の元へ疎開させました。その後、母と二歳の弟はなんとか無事でしたが、家は空襲で全焼しました。


 小学五年生の時から、朝は牛乳配達に加えて新聞配達もさせてもらいました。日本海の風が吹きつける海浜の村で、毎朝四十軒の家への配達はつらい仕事でしたが、戦争の後の日本では、みんながつらい思いをしました。


 学校が終われば母と畑仕事。そして私の家では新聞を購読する余裕などありませんでしたから、自分が朝配達した家へ行って、縁側でおじいさんが読み終わった新聞を読ませていただきました。おじいさんが亡くなっても、その家への配達は続き、おばあさんがいつも優しくお茶まで出して、「てっちゃん、べんきょうして、えらい子になれよ」と、まだ読んでいない新聞を私に読ませてくれました。


 そのおばあさんが、三年後に亡くなられ、中学三年の私も葬儀に伺いました。隣の席のおじさんが、「てつんど、おまえは知っとったか?おばあさんはお前が毎日来るのがうれしくて、読めないのに新聞をとっておられたんだよ」と。


 もうお礼を言うこともできないおばあさんの新聞・・・。涙が止まりませんでした。


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by takaboo-54p125 | 2017-03-18 05:05 | 教材