2011年 06月 17日
学校教育法第11条について(子どもの心を傷つける暴言は、体罰の境界線のどちら側?)「指導者の自問+信頼関係づくりの出発点」
学校教育法第11条は要旨として、次のように定めています。
「校長、教員は、学生、生徒、児童に懲戒を加えることはできる。ただし、体罰を加えることはできない」
なお、
「懲戒を加える際には、児童生徒の心身の発達に応じるなど、教育上必要な配慮がいること」
を、同法施行規則第13条で定めています。
義務教育では、遅刻した子どもなどに、廊下に立たせたり、教室への入室を禁ずるのも、子どもの学習する権利を奪うことになります。
国の通達の要点を列挙してみます。
してはならないこと
・トイレに行かせないこと
・食事をとらせないこと
・食事時間が過ぎても教室に留め置くこと
・遅刻してきた子を教室に入れないこと
・授業中、なまけたり、騒いだりしたといって教室外に子どもだけを出しておくこと
さしつかえないこと
・教室内に立たせることは体罰にならない限り、懲戒の範囲内として認めていい。
・窃盗や器物損壊の場合、懲戒の意味で体罰にならない程度に放課後残してもいい。
・窃盗で、当事者や証人に事情を聞くのはいいが、自白や供述を強制してはならない。
・懲戒として、掃除などの回数をふやすのはいいが、不当な差別待遇や酷使はいけない。
2013年3月13日:文部科学省からの通知(追加部分)
体罰の追加:従来からの、なぐること・けることに加えて
・突き飛ばして転倒させること
・ほほをつねること
・頭を平手でたたくこと
・ペンなどを投げて当てること
正当な行為の新設:容認されると明示された
・教員が身を守るための正当防衛
・暴力をふるう子の体を押さえつけること
・集会中に大声を出して抵抗する子の腕を引っ張って移動させること
懲戒の確認:生徒指導として認められる
・居残り、宿題、掃除については、上の「さしつかえないこと」を参照
・立ち歩きの多い子を叱って席につかせること
・部活の練習に遅刻した子を試合に出さないこと
(叱って席に着かせることは、まず、席に着いたらほめたり、席に着きたくなるような創意工夫をやり尽くした上でのことだと、私は思います。
また、遅刻したら試合に出さないことは、あらかじめ部のルールとして、全部員が納得してくれる過程を経た上でのことだと、私は思いますが、いかがでしょうか)
部活動の体罰:あえて新設された
・顧問の独善的な目的で、執拗かつ過度に肉体的・精神的負荷を与えることは、教育的指導ではない
以上は、あくまでも原則を示したというところでしょう。
子どもの心を傷つける暴言が、「してはならないこと」に含まれるのは言うまでもありません。
子どもの発達、心理、体力、人権を考えて、思慮深い指導であると同時に、その子の気持ちを大事に思う心があるかどうかが、教師として問われます。
○注意を促したり、しかった後の、子どもの気づきや変容をほめることまで見通しているか(最後は必ずほめることまで到達しているか)、
●それとも自分の思い通りにならず、ただ感情的に(腹を立てて)怒鳴っている(怒りっ放し)だけか、
この2つの意識(信頼関係を築こうとしているかいないか)の間に、指導(しかること)と体罰(暴言・罵詈雑言・八つ当たり・しごき)の境界線があるような気がします。
【体罰は連鎖する】指導者は自問しよう
運動部等で指導者の体罰(暴言も含む)があった場合、保護者たちの評価が割れます。
体罰を否定する保護者の気持ちは理解できます。
しかし、体罰を肯定する保護者が現実にいることを理解するために、少しばかり書いてみます。
「虐待(勝手にしつけと勘違いした暴力・暴言)は連鎖する」と、よく言われます。
自分の親から虐待を受けた人は、同じことをわが子にしてしまいやすいということです。
ですから、わが子へ無意識に虐待をしてしまわないためにも、さまざまな子育て支援のセーフティネットが充実しつつある(発展途上)とも言えます。
学校内のセーフティネットは、先生方の組織力があるか、ないかで決まります。
実は、体罰も虐待と本質的には同じなのです。
つまり、「体罰も連鎖する」のです。
言いかえれば、自分が選手(スポ少・中高生・大学)の頃、体罰を受けながら指導されてきた子が大人になり、指導者となった時、よほど意識して自らを戒めないと、教え子に体罰を加えてしまいやすいということです。
ですから、毎日、生徒たちを「ほめる」ために各部活の練習を見回ることを、実行しておられた校長先生もおられました。その校長先生は、部活顧問の気づかない、生徒のがんばりを見つけては、ほめることを、毎日くり返されていました。
そうすることで、望ましい指導(基本はほめて育てること)のお手本を部活顧問に示しておられたのでしょう。
校長先生がほめて回ることが、結果として、体罰防止の抑止力になった事例です。
同様に、子どもの頃に運動部で体罰を受けた選手が大人になり、保護者となった時、指導者の体罰に対して、黙認<容認<肯定<支持してしまう傾向が少なくありません。
ハッと気づくチャンスのあった人は、体罰を否定するようになります。
ところが、気づくチャンスのなかった人は、残念ながら、体罰=指導熱心、という安易な受けとめ方を、人生ずっと引きずります。
そこには、傷ついた子どもの心を思いやる気持ちは一切存在していません。
指導熱心(愛のムチ?)という美化された言葉の裏側にあるのは「体罰の連鎖」を断ち切れない人の見苦しい「言いわけ」だけです。
そこで、会津藩「什の掟」を少し真似させてください。そして、自問しましょう。
体罰もイジメも差別も「ならぬことはなりませぬ」
★イジメかどうかを決める権利があるのは、イジメを受けた被害者だけです。
その権利は、加害者にも、その親にも、学校にもありませぬ。
やっておきながら、イジメではないと、しらを切ってはなりませぬ。
★体罰かどうかを決める権利があるのは、体罰を受けた被害者だけです。
その権利は、加害者にも、他の子どもの保護者たちにも、学校にもありませぬ。
やっておきながら、体罰ではないと、うそぶいてはなりませぬ。
★被害者が弱いと、他人が勝手に決めつけてはなりませぬ。
誰にも決めつける権利はありませぬ。
体罰もイジメも、ならぬことはなりませぬ。
★差別かどうかを決める権利があるのは、差別を受けた人だけです。
その権利は、差別をした人にはありませぬ。
見て見ぬふりも、してはなりませぬ。
★パワハラ・セクハラ・DVかどうかを決める権利があるのは、された人だけです。
その権利は、した人にはありませぬ。
やっておきながら、していないと開き直ってはなりませぬ。
差別もパワハラもセクハラもDVも、ならぬことはならぬものです。
【明日から、学期始めからできる「信頼関係づくり」】
さて、体罰ではありませんが、私は子どもの学習意欲を高めるか、逆にそいでしまうか(発表する勇気や、聴こうとする集中力をなくしたりする)、のボーダーラインの1つとして、担任のひと言が大きいと感じています。
例えば、Aさんが途中からうまく言えなかった時、
「今、Aさんが言いたかいことの続きは、こういうことかな、と誰か言ってあげて」
と、Aさんの発言をつないであげるか、
「他の人はどうですか」
と、Aさんの発言を切ってしまうか、のどちらを担任が言うかが分かれ目になるのではないでしょうか。
また、B君がボソボソと小声でしか言えなかった時、
「B君が言いたいことは、たぶんこういうことかなと、誰か言ってあげて」
とフォローするか、
「B君、もっと大きい声で言って」
とプレッシャーをかけるか、のどちらを担任が言うかによって、B君が次回も発表するぞという意欲は違ってくるでしょう。
まして、Cさんが間違った答えを言った時には、どうかCさんの間違いを大事にして、せめて
「Cさんが間違っちゃったのは、ここをこう考えたからだね。大事な間違いだよ」
とつないであげてほしい(否定せずに間違いから出発することを大切にしてほしい)なと思います。
あちこちのページで紹介した具体策「クラスを何とかしたい」(じゃあ明日から、来週から、何から始めたらいいか)を、2つの記事に集めてみました。
重複している箇所もありますが、よかったら、ご覧ください。
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