2021年 02月 20日
「梅一輪 一りんほどの 暖かさ」服部嵐雪-作から教えてもらったこと
時候のあいさつを検索しました(2月下旬に出す依頼文を作成することになったので)。
「梅一輪 一りんほどの 暖かさと申しますが‥」
という時候のあいさつに、なんと‥粋(いき)やなぁと、心ひかれました。
風流だなぁと心底思ったので、誰の俳句を借りたのかなぁ‥とさらに検索してみました。
そうしたら、松尾芭蕉のお弟子さんだった服部嵐雪(蕉門十哲の1人とのこと)の俳句
「梅一輪 一りんほどの 暖かさ」
を、どなたかが時候のあいさつに使ったのが始まりなのかなぁ‥と推測まではできました。
松尾芭蕉の弟子ならば、おそらく江戸時代の人なんだろうなということはわかりますが、
服部嵐雪?蕉門十哲?梅一輪?恥ずかしながら、不勉強な私は何ひとつ知りませんでした‥。
私が閲覧して参考にさせてもらったのは、公益社団法人関西吟詩文化協会さんのサイトです。
季語と季節について、「寒梅(この句の前書より)-晩冬」(冬)」と、あえて書いてありました。
それで、以下のことを教えてくださったように、私は感じました。
それは、季語が前書きの「寒梅」ですから、季節は「晩冬」の句であるということです。
季語が「梅」ならば、季節は「春」になり、同じの句でも意味合いがちがってくるのでしょうね。
季語「寒梅」→季節「晩冬」→暖かい春を待ち焦がれる趣(おもむき)-ニュアンスでしょうか。
季語「梅」→季節「春」→暖かい春の訪れをいとおしむ趣(おもむき)-ニュアンスでしょうか。
この句に接して、どのように感じるかについては、人それぞれでしょうけど‥(十人十色)。
寒梅(前書き)
「梅一輪 一りんほどの 暖かさ」 服部嵐雪・作
春の「梅」じゃないあたり‥なかなか個性的な味わい深い俳句かなと思えましたが、いかがでしょうか。
前書きに「寒梅」と書いたところに、服部嵐雪がこの句で伝えたかったことが、何気なくうかがえます。
仮に今、真似してみた「寒梅の 一輪ほどの 暖かさ」などでは、嵐雪の思いは到底伝わらないでしょう。
先日、太陽光パネル下のバルコニーに小屋根を設置してもらいました(が、落雪の行方も気になります)。
郵便受けには、「落雪注意」と書きました(太陽光パネル上の雪は、一気に落ちます‥地響きがするほど)。
こうして日々、乱高下する三寒四温を体感しつつ、うららかな春の到来が待ち遠しい晩冬の今日この頃です。
【後日談】2021年2月21日
翌日、図書館でも確かめてみました(実際は私ではなく、司書の方が本を探し、掲載ページも調べてくださり、感謝します)。
その本の該当ページで、大岡信さん(詩人)は「寒梅-前書」「晩冬の句」と述べておられました。
別の本の該当ページで、櫻井武次郎さん(研究者)は「『寒梅』と前書‥冬」と述べておられました。
大岡さんによれば「(梅-春)と一般に理解され‥後人の編んだ嵐雪句集『玄峰集』では春の部に入っているが‥」とのことです。
櫻井さんは季語にはふれずに「句意-冬」と表現し、「暖かさの程度を『一りんほど』と表現したところが巧み」とのことです。
なお、櫻井さんは「中七を『一輪づつ』として人口に膾炙する句」とも述べておられ、さっぱり???わかりませんでした。
読み方を調べてみると「じんこうにかいしゃする」だとわかりました。「膾」=なます、「炙」=あぶりにく‥とのことです。
意味は「膾と炙が、誰の口にも美味しく感じられることから、人々の話題に上ってもてはやされ、広く知れ渡る‥だそうです。
「人口に膾炙する」‥私は今まで目にしたことも、聞いたこともなく、読み方も意味も使い方も、初めて知る慣用句でした。
そういえば、「梅一輪 一輪づつの 暖かさ」を紹介しているサイトも、たしかあったような気がします(これで納得です)。
1つ謎が‥嵐雪はひょっとすると「暖かさ」ではなく「あたゝかさ」と詠んでいたかも‥五七五で表現する俳句は奥が深い‥。
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