人気ブログランキング | 話題のタグを見る

元気の力「絆の形」【こんな日本人も】ハイチ・ベラルーシ・イスラエル・パレスチナ・中東・リトアニア・極東・ミャンマー,鳥取・京都・岩手・福岡・福井・大阪・島根【こんな日本・中国・韓国の人も】東京・大阪

さり気ない優しさを一瞬の行動で示した子


年末の大掃除で、昔、研修の時にもらったプリントが出てきました。よほど残しておきたいと思わないかぎり、即日、ゴミ箱行きでした。ですから、残しておくほどなので、おタカラかなと思いました。ちらっと見て、思い出しました。紹介します。


『授業中だった。元気者の女の子が急に立ち上がり、窓際へ行き、水の入った花瓶を持って、「先生、水を替えてきます」と言って歩き出した。そして、自分の席の前に来た時、突然つまずいた。そして、座席に座っていた大人しい女の子のスカートに、花瓶の水を全部こぼしてしまった。水をこぼした元気者の彼女は、その子に必死に謝った。花瓶の水をかけられた大人しい女の子は、黙って泣いていた。だが、その子は水をかけられて泣いていたのではなかった。その子はトイレをガマンしきれず、おしっこをもらしたので泣いていたのだ。でも、みんなは知らなかった。


そのことに1人だけ気づいた後ろの席の彼女は、すぐ行動にうつした。その子のスカートに、実は花瓶の水をわざとかけたのだった。おしっこをもらしたことを周りのみんなに気づかれないようにするためだ。元気者の彼女は自分を悪者にしてまで、その子をかばったのである。 周りのみんなからは「授業中に何やってんだよ」などと非難の声を浴びたが、ひと言もその事実を語らなかった。先生も後になってから、おしっこをもらした子から、その話を聞いたそうだ。』


以上です。これこそ0,1秒の瞬間的な対応ですね。と言うより、柔軟で大胆かつ冷静な動きと言えます。おもらし→花瓶の水→カモフラージュ、私には到底思いつきません。いわゆる「とっさの危機管理対応」のお手本です。それを子どもがやったというところに、驚かされました。級友のおもらしのことを、ずぅっと絶対に話さないというところがステキです。私は、その子を尊敬します。(尊敬するのに年上も年下もありません)


私よりずっと素早く、とっさの対応をしてくれた子


私の担任していたクラスでも、私よりずっと「とっさの対応」がすばらしかった子がいました。担任として恥ずかしいくらいです。バスに乗っている時なら、子どもらの顔色を見回し、こちらも心の準備をしています。しかし、教室で、授業中に、とっさにこんな素早い対処は、私にはできません。高学年です。男の子が授業中、急に嘔吐してしまいました。私は「たいへんや」と思いました。その一瞬です。男の子が嘔吐するのと、ほぼ同時に1人の女の子が動いていました。教室に置いてあった新聞か、トイレットペーパーか、自分の雑巾かは、忘れましたが、走って、それで、嘔吐物の処理をサッと始めたのです。それを見た他の子が、急いでビニル袋を持って行きました。私は、嘔吐した子について、「誰か保健室に連れて行ったってや」と言っただけでした。その間に、嘔吐物の処理はてきぱきとなされ、あっという間に終わっていました。見事な早技でした。いっしょに手伝った子も数人いました。何ひとつ不平も言わず、イヤな顔もせず、黙々と片付けて‥私も他の子どもたちも、「ありがとう」と言ったような気がしますが‥。何事もなかったかのように、えらぶらない彼女のけだかい横顔は、忘れられません。私なんか足元にも及ばない、立派な動きでした。「あ・うん」の呼吸の、自然な連携プレーにも、目を見張りました。昭和の頃のエピソードです。脱帽です。(今はおう吐物の処理は、子どもにさせられないので、まさに「伝説」です)


校長先生の「ひと言」は大きい


校長先生にも、いろいろなタイプの校長先生がおられます。私も10人の校長先生と、ご一緒に仕事をさせていただきました。


新任の頃です。「好きなようにやれよ。責任はワシがとったるさかい」とおっしゃる校長先生でした。そう言われると、どの担任も、かえって好き勝手にはできません。みんな、報告・連絡・相談、いわゆる「ほうれんそう」を大事にしたのを覚えています。豪快な校長先生でした。私には、そんなセリフを言う度胸はありません。退職される3月31日、送別会の後、校長先生は学校に戻られました。「夜の12時までは、ワシの責任があるんや」まさに「もののふ」の魂の持ち主でした。(問題児の私は、何度救ってもらったことか)


「全校集会はワシの授業や。職員会議の話も同じやで」と言われる校長先生もおられました。ですから、朝の打ち合わせでは、短くても教職員みんながハッとすることを、職員会議では、教育の外の世界の新鮮な話題をお話しされる校長先生でした。今、思うと、職員みんなの反応を楽しみながら、私たちに、「広い視野」で子どもと教育を見ることの大切さを教えてくださったようにも思います。5本の指の根元(手のひら)に小便をかけた孫悟空みたいな、ちっぽけな私たちに対して、孫悟空が越えられなかった、でっかいおシャカ様のような存在でした。


学級だよりと同じように、「職員室だより」を書かれる校長先生もおられます。校長先生の書いておられる「職員室だより」って、興味しんしんですよね。ちらっと教えてもらいましたので、紹介します。「職員室だより」の内容は、おおよそ次のとおり、とのことです。


・今日、指導してほしいこと。
・日々の取り組みの中で、気をつけたいこと。
・教師として心がけたいこと。
・役に立つ教材など。
・教育をとりまく情勢や話題。


これらの中から全校の先生方に伝えたいことを、リアルタイムに毎日書いている校長先生がおられるということ、私はびっくりしました。私のお気楽なブログとは、次元が違います。並大抵のことではできません。後で読み返せるようにとの配慮には、頭が下がります。


以上、全然ちがうタイプの校長先生を3人紹介しました。元中学校長のお話を伺う中で、この3人に共通することが1つあることに気づきました。それは、先生方1人ひとりを見る「まなざし」です。管理職としての管理的な視線で、日々、先生方に接することがないのです。その逆で、先生方一人ひとりに対して、共感的な言葉を必ずかけておられたことです。クラスがしんどい先生には、その「労をねぎらう温かさ」を、3人とも持っておられました。


その正反対のエピソードをひとつ紹介します。ある時、朝早く出勤した先生方が雪どけをしていた時、後から出勤して来た校長先生が、「おはよう」とだけ言って、正面玄関へ入って行かれました。私は、その場で学年主任の先生方に、「なんで、校長先生は、ひと言、ありがとうって言ってくれはらへんの!」と言われました。(そんなぁ、私は、ただのフリーの生徒指導なんですけど‥)つまり、子どもたちが担任にほめてほしいのと同じで、先生方も校長先生に「ひと言」でいいから心ある言葉をかけてほしい、これが人情なのです。同僚の私の「ありがとう」では物足りないのでしょう。


どうか、校長先生方、見ていて歯がゆいとは思いますが、教職員1人ひとりに、特にしんどい思いをしている担任にこそ、ぬくもりのある共感的な「ひと言」をかけてあげてください。人は、それだけで、元気が出るのです。人は、それだけで、自分は独りぼっちじゃないんだと安心できるのです。


鳥取県:国道9号線沿いの人たちの「まごころ」


2011年1月9日(日)朝日新聞1面「大雪ぬくもり国道 動けぬ車 手のひらいっぱいのもてなし」の記事を概略だけ紹介します。(  )は私なりの補足です。


『元日の朝。‥鳥取県琴浦町‥(看板屋さん)大みそかから降り続いた雪は、もう腰の高さまで積もっていた。‥米子市‥89㎝の積雪‥トントントン。‥女性が真っ青な顔で立っていた。「すみませんが、トイレを貸してもらえませんか」‥「こらぁ大変だ」‥見たこともない車列に驚いた。仕事場のトイレを、みんなに使ってもらおう。そう決めた。人口1万9千人の琴浦町の人たちにとって、いつもと違うお正月が始まった。‥(大みそか~元日、吹雪の国道9号線)約25kmで車1千台が立ち往生した。‥1m四方ほどの白いベニヤ板に赤いテープで「トイレ→」と書いた看板をつくり、国道脇と自宅前に立てかけた。次々と人がやってきた。赤ちゃんを連れた若い女性は、ミルク用のお湯が欲しいと小さなポットを持ってやってきた。‥毛布を持ち出し、お湯と一緒に手渡した。女性は何度も頭を下げて車に戻った。‥(パン屋さん) 「ありったけの米を炊いてくれ」公民館から大きな釜を2つ借り、自宅にあった1俵半の米を全部炊いた。近所の女性に役場に集まってもらっておにぎりをつくった。‥パンを運ぶトレーで、おにぎりを配り歩いた。「目の前で困ってる人がいたら‥。お互い様じゃけね」日が落ちてからも、首に懐中電灯を下げ、「バナナいりませんか」と声を掛けて歩いた人がいた。神戸から帰省中。16年前、阪神大震災にあった。‥「寒さ、空腹、不安を感じている人がいるのは、あの時と同じ。自分だけぬくぬくとはできへん」(まんじゅう屋さんは、1200個のまんじゅうを配りました)‥車列に向き合い続けた1日。「ああ、そういえば今日はおせちを食べなければならない日だった」‥夜になって思い出した‥』


以上、概略です。仕事場のトイレを使ってもらうため、看板を作って、2か所に立てる。赤ちゃんのために、家の毛布を手渡す。公民館の釜で、家の1俵半の米を全部炊く。近所の女性が役場に集まり、おにぎりを握って配る。夜も、首に懐中電灯を下げ、バナナを配る。売り物1200個のまんじゅうを配る。そして、おせちも食べずに車列に向き合い続けた1日。すべて、大雪の寒い外での活動です。なかなかできることではありません。ニュースでは、ガソリンも配っておられたと聞きました。立ち往生した1000台の車の人たちを、どれほど勇気づけたことでしょう。鳥取県の人たちの懸命な活動、その「まごころ」に心を温かくさせてもらいました。


続編です。


福岡市立石丸小学校4年2組の取り組み


2011年1月30日(日)朝日新聞30面に「ボクらも助ける 福岡の小学生が手紙」という記事が載っていました。


この年末年始、国道9号線で約1千台が立ち往生し、鳥取県琴浦町周辺のみなさんが手を差し伸べたことは、私たちの記憶にも新しいことです。その記事を読んだ先生が、担任する小学校4年生のクラスの子どもたち32人に紹介した取り組みの記事でした。名前など抜粋しながら紹介させてください。


『‥3学期最初の国語の授業。鳥取県の場所や気候を学びながら記事を読んだ。「すごい」「優しい」と子どもたち。先生は「その気持ちを手紙にしてみましょう」と話しかけた。「考えるだけでなく、行動に移す大切さを知ってほしい」からだ。(こまっている人を助ける人は、すごくかっこいい)(今のごじせい、不きょうや、こようの問題がある中、こんなニュースはいいな)率直な思いがつづられた。先生は「琴浦町の人たちの話を読み、社会とのつながりや、こんな大人になりたいという将来像を意識し始めたようです」と話す。(人との助け合いができる日本にしたいです)と書いた(男子)は「自分がしてもらったらうれしいことをしたい」(女子は)「困っている人がいたら、何ができるか考えたい」と記者に答えてくれた。もし近所で琴浦町のような事故が起きたらどうする?「お母さんに頼んで、千個は無理だけど100個くらいおにぎりを差し入れたい」「毛布やカイロを配りたい」子どもたちの手紙は記者に託され、琴浦町の住民に届けた。「こんなにかわいいお手紙を‥。こちらが泣いてしまいそうです」(看板工房屋さん)は手紙を手にして、目を赤くした。手紙や電話も十数件届いた。


他人のことなど知らんふりする最近の世の中‥頭が下がる思いです


記事を読んで涙が止まりませんでした。・・記事には出てこなかった大勢の琴浦町民の方々がおられたと察します


(看板工房屋さん)は石丸小4年2組に返事を出した。「困っている人がいたら自然に手を差し伸べられる人に育ってください」との思いを込めて。』


(看板工房屋さん)の書いた手紙も載っていました。その中で


国道に近い人はそれぞれ自分で出来ることで手助けしたようです。だけどみんな、そんな立派なことをしたとは思っていません。困っている人があれば、手をさしのべるのは、あたり前のことだと思います


そして、手紙の最後はこう結んでありました。


私たちは1人では生きていけません。・・助けられたり、助けたりしながら楽しく生きていきましょう


この福岡市立石丸小学校4年2組の取り組みは、国語・社会・道徳なども含めて、地域社会とつながるリアルタイムな「総合」の時間そのものではないでしょうか。担任の先生の言葉にある


こんな大人になりたいという将来像を意識し始めた


貴重な時間になると予測してなかったとしても、担任の先生の感動が、子どもたちの心に響いた結果であることは間違いありません。


福井県敦賀市や南越前町のみなさんの「温かさ」


2011年。先日は、鈴鹿山脈のふもとのわが家周辺でも30~40㎝の積雪を除雪しました。でも、この1月末の北陸の大雪は、ハンパではありませんでした。新聞の1面には、「北陸で記録的な大雪」という記事が載っていました。


『・・JR北陸線では30日夜から特急など9本が動けなくなり、うち福井県内で立ち往生した計3本の乗客約1150人が車中で2夜目を迎える事態に。福井県内の北陸自動車道では最大950台、国道8号では同150台が立ち往生した。・・福井県越前町今庄で242㎝と観測史上最大を記録した。』


これは、ただごとではありません。30面には「ドカ雪 住民救いの手 福井」という記事も載っていました。


『・・列車や車に閉じこめられた人も多数いたが、自治体や周辺住民が炊き出しなどで支援の手を差し伸べた。・・「昨夜ご飯を食べた後、何も口にしていない。ありがたい」・・敦賀市職員が差し入れたおにぎりをほおばった。・・敦賀市は31日午前、運転手らに炊き出しのおにぎり配布を決め、防災用の備蓄米で1200人分(2400個)のおにぎりを作った。支援の輪は民間にも広がった。かまぼこ製造会社は、焼きちくわ900本を、昆布加工・卸売会社は、昆布を巻いたおにぎり60パックを運転手に配った。・・早朝に雪かきをしていた今庄駅付近の住民らは、列車内で一夜を明かした乗客から「食べるものがほしい」と頼まれた。近くに住む方(高齢者)は茶を沸かし、駅まで何度も運んだ。住民有志でおにぎりの炊き出しも始め、約800個を列車に届けた。差し入れを受け取った乗客は「気持ちがうれしい、ありがたい」と話した。』


大雪の中、お茶を沸かしては駅まで何度も運んだおばあちゃんをはじめ、住民のみなさんや、敦賀市職員さんの温かい気持ちが私たちにも伝わってきました。


滋賀版23面を見ると、「湖北大雪 余呉249㎝最深タイ 米原駅で車中泊」という記事もありました。


『・・JR西日本では・・米原駅に到着した快速電車を「列車ホテル」として開放。・・119人が車内で一夜を明かした。JRでは、31日朝になって新たに特急「しらさぎ」を休憩所として用意。正午ごろには車内で運行再開を待つ乗客らに駅員らが弁当を配り歩いた。・・乗客の一部はJRが彦根駅周辺に用意したホテルに移動した。・・県内有数の豪雪地帯でもある高島市マキノ町在原地区では・・240㎝を記録。』


長浜市余呉町柳々瀬の249㎝は1984年(S59年)の観測史上最深記録と並んだとのことです。米原駅で弁当が配れたのは、同駅が新幹線・北陸線・東海道線のターミナル駅のため、駅弁がいつも売られている駅だからです。どの駅でも配られると誤解しないでくださいね。心配なのは柳ヶ瀬と在原です。雪崩が起きませんように。柳ヶ瀬と言えば、滋賀県一の豪雪地帯です。在原は、茅葺きの家々が点在する原風景(観光地化されていない)を今なお残す所です。屋根の雪下ろし、どうか気をつけてください。


福井県今庄の人たちへ、大阪の人から感謝の手紙


2011年2月4日(金)の新聞34面に「あのおにぎり 忘れない」という記事が載っていました。紹介させてください。


『北陸を襲った大雪で特急列車が25時間以上立ち往生したJR今庄駅(福井県南越前町)に3日、乗客だったという人から手紙が届いた。おにぎりや弁当を配ってくれた地元の人や駅員らに感謝の言葉をつづっている。住民たちは、思わぬ便りに顔をほころばせている。・・  手紙は大阪府藤井寺市の消印で、サンダーバード40号の「1乗客より」となっていた。「家も大変な時なのに我々のためにおにぎりを握ってくださり、あの味は一生忘れることのできないものとなりました」と地元の人たちに感謝していた。弁当や毛布を運んだJR関係者には、「(列車が)動き出した時には皆様がホームに立ち、深々と頭を下げ、手を振ってくださっている姿に胸迫るものがありました」とお礼の言葉を書いていた。・・駅には他にも、お礼の電話や礼状の送り先を問い合わせる電話が数件かかっているという。』


携帯電話の充電のため、コンセントを貸してもらった人もいたそうです。何の見返りも求めず懸命にしてあげた今庄の人たちにとって、大阪府藤井寺市周辺の人からの手紙は、「してあげて、ほんとによかった」という、うれしい便りだったことでしょう。


除雪ボランティアが滋賀県長浜市木之本町・余呉町へ


昨日は立春でした。大雪の峠は越えましたが、まだ滋賀県北部では積雪2mを超す所がたくさんあります。今朝、散髪屋さんに行って、中日新聞を読んでいたら、載っていました。今、手元にないので、覚えている範囲内です。まちがっていたらごめんなさい。


滋賀県長浜市木之本町では、社会福祉協議会が除雪ボランティアを募集したところ、県内外から20人の方が応じてくださったそうです。そして、高齢化率の高い集落を中心に除雪をがんばってくださったと書いてありました。参加した滋賀県米原市の若者の声も載っていました。今の若者たち、やるじゃないですか。県外からも遠いのに、わざわざ来てくださる、これもなかなかできることではありません。


こういう話は、ぜひ、子どもたちに伝えてほしいと思います。先日、福岡県の小学校の先生が言っておられた


「社会とのつながりや、こんな大人になりたいという将来像」を、子どもたちが描くモデルのひとつになるのではないでしょうか。


朝日新聞2011年1月20日(木)2面の「ひと」で、次のような記事が載っていました。紹介します。                                               


ハイチで仮設住宅の建設を引っ張る大野拓也さん


『ミスター・シェルター。1年前の大地震で推定23万人が犠牲になったハイチで、こう呼ばれている。仮設住宅を建てるエキスパートだ。発生後、電話が次々にかかってきた。「ハリケーンに耐える屋根の工法は」「熱帯で木材の耐久性は」


その時は、インド洋大津波の被災地スリランカにいた。災害や紛争で住居を失った人々を支える国際移住機関の職員として、5年間で2万戸の仮設を建てた経験が、似た気候のハイチでも求められた。


ほどなくして現地入り。数千のテントがひしめく広場は生ゴミが散乱し、異臭が漂っていた。


まず、設計図を引く。地元業者が簡単に建てられるように現地の工法を採用。耐久性と費用のバランスから、壁は厚さ6ミリの合板、屋根は0,4ミリのトタンと決めた。


工事を始めると、子どもたちが集まってきた。柱が立つと笑顔に変わり、屋根ができると中に入りたがる。いま3千戸に1万5千人が暮らす。‥住民は喜んでくれた。


建築学の博士号をもつ。大阪大3回生の冬に阪神大震災に遭い、住居の大切さを痛感した。2005年に大学院を修了し、就職までの3ヶ月契約でスリランカへ。だが、仮設にうれし泣きし、踊って喜ぶ人々に出会い、正規の職員になった。


復興2年目に入ったハイチでは、まだ数十万人がテントで生活する。年末年始を大阪で過ごし、とんぼ返りした。』


【雪とパイナップル】のヤヨイさん


国際医療ボランティアで72回の医師団を派遣し、6億円の医薬品・医療機器を送って、子どもの命を支える支援を続けたメンバーの鎌田實(みのる)Dr.が、アンドレイ君の死後、再びベラルーシ共和国のアンドレイ君家族の元を訪れます。その時、エレーナ母さんが鎌田さんに語ってくれた言葉を、絵本「雪とパイナップル」の中から抜粋して紹介させてください。


『私には忘れることができない人がいます。日本から、移植療法の看護を指導するために来た、ヤヨイさんという看護師さんがいたでしょう。・・ヤヨイさんが、オーバーの襟を立てて、雪の町へ出て行くのが、病院の曇った窓ガラスを透かして見えました。翌日も、ヤヨイさんは、マイナス20℃に凍った町へ出かけて行った。次の日も、ヤヨイさんは、窓の外に消えた。その時、もしかしたらって、思いました。アンドレイが、わがままを言ったからかも知れない。ヤヨイさんはパイナップルを探しに、町へ行くのだと、確信しました。無理なこと言ってゴメンなさいって、心の中で謝りました。』


『ありがたい。幸せな子だと思いました。こんなに大切に思ってくれる人がいる。日本の人が最先端の治療で、うちの息子の命を救おうとしてくれている。感謝しています。でも、あるはずのない、パイナップルを探して雪の町を歩きまわってくれた彼女のことを考えると、私は人間って、あったかいなあって思いました。』


『私は、うれしかった。人間ってすごいなあって、そのとき思ったのです。やさしい心は、人から人へ伝染していくんだって。・・雪の中を、パイナップルを探して歩いてくれた、ヤヨイさんのことが忘れられません。私はアンドレイが病気になってから、なぜ、私たちだけが苦しむのかって、人生をうらみました。原子力発電所の事故のことを秘密にした国の指導者をうらみました。放射能のことを知っていたら、黒い雨の中、アンドレイを私は外に連れ出さなかった。人生は意地悪だなあって思った。私たちは、ささやかに、つつましく、生きてきました。何も悪いことをしていないのに。生きている意味が見えなくなりました。でも、ヤヨイさんのおかげで、私の中に、忘れていたものが、よみがえってきました。それは感謝する心でした。人間と人間の関係はまだこわれていない。私たち家族の内側に、新しい希望がよみがえってきました。』


『パイナップルの缶詰を缶切りでヤヨイさんが開けた時、プシューッと音がして、いろんなものが飛び出したように見えました。真心や希望が見えたような気がしました。人間のことも、命のことも、世界のことも、少し見えたような気がしました。本当にうれしかった。缶詰の中の何かから、アンドレイの命をもらったのかもしれません。パイナップルが育つ南の国の太陽が見えたような気がしました。』


『ドクターたちのことはもちろんですが、マイナス20℃の雪の町をパイナップルを探し歩いてくれた日本の女性のことを、私たち家族は、一生忘れないでしょう。パイナップルは、アンドレイにとっても、私たち家族にとっても、希望そのものでした。短い命でしたが、幸せな子だったと思います。』


以上、最愛の息子アンドレイ君を失ったエレーナ母さんが、目に涙をいっぱいためてポツリポツリと、鎌田さんへおだやかに語ってくれた言葉でした。


そして、この「雪とパイナップル」の1章「遠い旅のはじまり」に鎌田さん自身が書いておられます。


「一番大切なものを失った時でも、人間は感謝することができることを知りました。言葉が違っても、歴史が違っても、文化が違っても、宗教が違っても、人間は理解しあえると・・・・・悲しみや、苦しみや、喜びを分かち合えることを、雪の中のパイナップルから教えられました。」と。


鎌田さんが「命の切なさや、大切さを考えることのできる、未来の日本を支える人たち」に贈りたくて「大人が読む絵本というカタチ」にしたかった本書「人は一瞬で変われる」は、ぜひ直接お読みください。図書館にもあるはずです。


【アハメドくんの いのちのリレー】


医師である著者・鎌田實(みのる)さんが「あとがきにかえて」で、次のように書いておられます。抜粋しながら紹介させてください。


『5年間、ずっと気になっているパレスチナ人がいた。小さな新聞記事を読んでから、いつか会いたいと思い続けてきた人。イスラエル兵に殺された息子の臓器を、敵国の病気の子どもたちを救うために差し出したお父さん。彼の行動や想いを絵本にしたい。・・もともと、どちらかの国を一方的に責める本は書きたくなかった。・・世界中の人に、アハメドを失った悲しみを横に置いて敵国の病気の子どもたちを助けたイスマイル父さんのことを知ってもらいたい。心臓を提供してくれたイスマイルさん一家のことを、もう1つの家族として大切にし、「大人になったら自分もパレスチナの子どもの命を救い、平和の橋を架ける人間になりたい」と語るイスラエルの少女、サマハちゃんの言葉を聞いてもらいたい。・・イスマイル父さんが息子の心臓を提供してくれたことから始まった、やさしさのリレー。この「きっかけ」を忘れないために、ぼくは絵本をつくった。・・いろんな国の人たちに読んでもらいたくて、英文をつけることにした。・・紛争の絶えない憎しみの大地で見つけた希望の言葉「にもかかわらず」をキーワードにした絵本を読んだ人たちが、新しい波を起こしてくれることを祈っている。』


「絆の力 かたちに」 という生活面の記事が、朝日新聞2011年1月27日(木)25面にのっていました。紹介させてください。


市、ごみ出す「手」見守る「目」


京都府宇治市では、1人暮らしで体が不自由なお年寄りの自宅まで足を運び、ごみを回収する「ふれあい収集」と呼ばれる市のスタッフがいるという記事でした。必要なのは、日々の暮らしを支える「手」ということで、2年前から始めたと書いてありました。ごみが出ていなかったり、声かけに反応がなかったら、緊急連絡先に連絡する安否確認サービスも兼ねているそうです。記事は、最後に次のように締めくくってありました。


『見えてきたのは、「玄関に出てくるのが精いっぱいという1人暮らしのお年寄りが、こんなにたくさんいるのか」と収集スタッフも驚く現実だった。‥効率で割り切れぬ仕事だ。ときに、お礼の手紙も届く。網の目のように地域を回るごみ収集スタッフが、家族代わりにお年寄りを見守る「目」となる。担当課長は、「やりがいがあります」と言った。』


地域が「自ら」「共に」雪かき


『「おはようございまーす」2011年1月半ばの日曜日。元気よくあいさつをした中学生4人が、大人がスコップでかき出す雪をソリで運ぶ。杖をついて玄関先に出てきたお年寄りが、
「ありがてぇ、ありがてぇ」とつぶやく。奥羽山脈の抱かれた豪雪地帯、岩手県八幡平市の安代地区。10人の除雪隊が1人暮らしの高齢者でボランティアの雪かきを始めた。大雪の今年、軒先まで雪に埋もれていた平屋の家が、15分で姿を現した。‥過疎化に悩む「地方」にこそ、再び絆を育むヒントがある。‥約15年前に地元の社会福祉協議会がつくったのが除雪隊「スノーバスターズ」だ。60代以上の住民が中心だが、中学生もクラブ単位で参加する。福祉教育の一環だ。‥絆は求めて結ぶもの—。‥抱く思いだ。「絆って、当たり前にあるものじゃないんだって気づいた」‥「雪国の冬は大変よねー。」何げない問いに、お年寄りが思わぬ言葉を返してきたという。
バスターズで元気な子どもたちが来るのが楽しみ。3日前からわくわくして、3日余韻を楽しむ。だから1週間はあっという間。気づいたら春がくる
この日、バスターズがそのまま通り過ぎた家があった。近所の人が率先して雪かきを済ませてくれたらしい。15年たって、そんな家が増えてきた・・
私の目標はね、バスターズの解散なんです」』


以上です。よけいなコントは書きません。ぜひ、子どもたちに話してあげてください。こんな日本の人たちがいるということを。(2011年2月10日)


岩國哲人さん体験談「おばあさんの新聞」心温まるエピソード


たしか2014年10月中旬頃の朝刊1面下の天声人語に載っていました。と書いた理由は、その記事を切り取って残しておいたので、今も手元にあるのですが、じつは日付をメモするのを忘れていたからです。


岩國哲人(いわくにてつんど)さんの著書を図書館で読んだことがあります。大阪生まれの島根育ちで、たいへん苦学されたそうです。日米の大手証券会社で活躍され、島根県出雲市長になられて取り組んだことを書かれた自叙伝「男が決断する時」だったような気がします。その後、衆議院議員もされて、米中韓の各大学客員教授などもなさったようです。国際金融界から出雲市長を経て政界まで渡り歩く大胆な人生を歩まれた方、という印象があります。しかし、この「おばあさんの新聞」というエピソードは、初耳でした。次のような記事(少年てっちゃん=岩國哲人氏)です。


『早くに父が亡くなり、家には新聞を購読する余裕がなくなった。好きなのでなんとか読み続けたい。少年は新聞配達を志願した。配った先の家を後で訪問し、読ませてもらおうと考えたのだ。


元島根県出雲市長で衆院議員を務めた岩國哲人さん(78)の思い出だ。日本新聞協会の新聞配達エッセーコンテストの大学生・社会人部門で今年、最優秀賞になった。題して「おばあさんの新聞」


小学5年の時から毎朝40軒に配った。読み終わった新聞を見せてくれるおじいさんがいた。その死後も、残されたおばあさんが読ませてくれた。中3の時、彼女も亡くなり、葬儀に出て実は彼女は字が読めなかったと知る。「てっちゃん」が毎日来るのがうれしくて(おばあさんは新聞を)とり続けていたのだ、と。涙が止まらなくなった……


岩國さんはこれまで新聞配達の経験を語ってこなかった。高校の同級生で長年連れ添った夫人にも。しかし、今回、おばあさんへの感謝の気持ちを表す好機と思い、応募した。「やっとお礼が言えて、喜んでいます」。きのう電話口で岩國さんはそう話した。(以下略)』


岩國哲人さんは、人生で忘れられない「おばあさんの新聞」の体験を、市長時代にも、衆議院議員時代にも、一切だれにも語らず、心の中にそっとしまっておられました。それだけで尊敬してしまいます。第一線から退いた今、エッセーに綴ることで、おばあさんへの感謝の気持ちを伝えられたのでしょう。60年以上、ずっと心の中で大事に大事にあたためておられた・・なんとも言えず心がじんわりと温まり、読み手までもらい泣きしそうなエピソードだと、感銘を受けました。


『おばあさんの新聞  岩國 哲人(78歳)東京都(敬称略)


 一九四二年に父が亡くなり、大阪が大空襲を受けるという情報が飛び交う中で、母は私と妹を先に故郷の島根県出雲市の祖父母の元へ疎開させました。その後、母と二歳の弟はなんとか無事でしたが、家は空襲で全焼しました。


 小学五年生の時から、朝は牛乳配達に加えて新聞配達もさせてもらいました。日本海の風が吹きつける海浜の村で、毎朝四十軒の家への配達はつらい仕事でしたが、戦争の後の日本では、みんながつらい思いをしました。


 学校が終われば母と畑仕事。そして私の家では新聞を購読する余裕などありませんでしたから、自分が朝配達した家へ行って、縁側でおじいさんが読み終わった新聞を読ませていただきました。おじいさんが亡くなっても、その家への配達は続き、おばあさんがいつも優しくお茶まで出して、「てっちゃん、べんきょうして、えらい子になれよ」と、まだ読んでいない新聞を私に読ませてくれました。


 そのおばあさんが、三年後に亡くなられ、中学三年の私も葬儀に伺いました。隣の席のおじさんが、「てつんど、おまえは知っとったか?おばあさんはお前が毎日来るのがうれしくて、読めないのに新聞をとっておられたんだよ」と。


 もうお礼を言うこともできないおばあさんの新聞・・・。涙が止まりませんでした。』


懸命の人命救助【関根さん、李秀賢(イ・スヒョン)さん、厳俊(イェン・チュイン)さん】の志から学ぶこと


読んで幸せな気持ちになった新聞記事と理由を募集する「HAPPY NEWS 2013」(日本新聞協会主催)の受賞者が2014年4月3日に発表されました。新聞報道の中で読者を幸せな気持ちにした人物に贈られる「HAPPY NEWS PERSON」には、昨年2013年9月に台風18号で増水した淀川へ飛び込み、溺れている小学生を救出した中国人留学生:厳俊(イェン・チュイン)さんが選ばれたことを、4月3日の夕方、テレビのニュースで見ました。


ふっと、かつて、JR山手線で起こった人身事故を思い出しました。あれは2001年、酔った男性がホームから線路に落ち、その男性を助けようと線路に飛び降りた韓国人留学生:李秀賢(イ・スヒョン)さんと日本人カメラマン関根さんが、助けようとした男性とともに電車にはねられ、3人とも死亡されたという、誠に無念な出来事でした。


12年の時を経て思うことは、いずれも自らの危険を顧みず、とっさに行動した関根さん、李秀賢(イ・スヒョン)さん、厳俊(イェン・チュイン)さんの3人は、人命救助への勇気・決断力・行動力を備えておられることです。今、改めて、関根さん、李秀賢(イ・スヒョン)さん、厳俊(イェン・チュイン)さんの3人には、心から敬意を表したいと思いました。3人の足元にも及ばない私などには到底真似すらできません。30年以上前ですが、実際によく似た電車事故の場面に遭遇しました。その瞬間、隣のホームにいた私はハッと息を飲み、体が硬直して、1歩も動けなかった情けない体験があるのです。


関根さん、李秀賢(イ・スヒョン)さん、厳俊(イェン・チュイン)さん、3人の行動から教えられたのは、人の命を助けようとする気持ちに、日本人・韓国人・中国人の違いなどない・・この3人は、人間として立派だということです。「◎◎人は・・・」と一方的に決めつけることは、偏見による差別意識に根ざしていないでしょうか。だからこそ、日本にも韓国にも中国にも、人間として立派な人、尊敬できる人、人を大事に出来る人がいることに、あえて目を向けたいものです。私も直接出会って、その誠実な人柄に感銘を受けた、韓国籍や中国籍の知人がいます。まずは交流・対話を絶やさないことが大切だなと思いました。


「国境なき芸能団」の落語家:笑福亭鶴笑さん


この話題が、社会科なのか、道徳なのか、総合の国際理解教育なのか、という判断は、先生方にお任せします。私はただ、こんな日本人がおられることを、子どもたちにも知ってほしいと思っただけです。


今からちょうど半年前、昨年2014年12月20日(土)朝日新聞2面「ひと」で落語家 笑福亭鶴笑さんが紹介されていました。タイトルは「世界の紛争地に笑いを届ける落語家 笑福亭鶴笑さん」で、次のような記事でした。


『人見知りでシャイなのに、笑わせるためなら大胆になる。十八番のパペット落語は、ひざに仕込んだ手作りの人形や小道具を使って繰り広げる一人格闘劇。言葉をこえた芸で、イラク、アフガニスタンと治安に不安のある国も訪れて笑いを届けている。


今年の夏にフリージャーナリストらと向かったアフガンの首都・カブールでは、ヘン顔を切り札に避難民キャンプなどを回った。「喜んでもらえたら、それでええんです」。型に縛られない上方芸人の精神を世界で実践している。(中略)


30歳で落語家仲間と米国に行ったのを手始めに毎年のように海外で芸を披露。有名になりたかった。だが、2000年に大地震後のトルコで「国境なき医師団」の活動を知り、自分にできることを考えた。4年近く暮らしたロンドンでも、芸人が当たり前のように社会奉仕活動をしていた。心を励ます笑いを世界へ届けようと、8年前に仲間とNPO法人「国境なき芸能団」を旗揚げした。


「こっちが笑顔なら向こうも笑顔になる。(後略)」』


記事の紹介は以上です。記事の中略・後略部分も知りたい方は、図書館やデジタル版で読んでください。笑福亭鶴笑さんの言っておられることは、鎌田實(みのる)さん(ドクター)の言葉(著書における文章)と重なって聞こえます。以下は、以前にも紹介しました鎌田實さんの言葉です。


『あったかさは、あったかさの連鎖を生む。‥あったかさは空気感染する。‥一度感染すると、人のあたたかさに敏感になる。小さなあたたかさもすかさずキャッチして、感動できるようになる。‥心をあったかくして、いい人間関係を築いていけば、ストレスが減り、体の免疫力も上がる。心と体はつながっているのだ。‥あたたかさに出会うたび、ぼくらはうれしくなる。元気になる。ほかの誰かを、うれしい気持ちにさせたくなる。元気にしてあげたくなる。・・絶滅させられない、根性のある、あきらめない「あったかさ」を広げたいと思っている。』


鎌田實さんは、私より11歳も人生の先輩ですし、笑福亭鶴笑さんは、私より1歳下です。お二人と比べて、たいしたことは何もできていない自分が恥ずかしいのですが。(2015年6月20日)


第二次大戦中、リトアニアで難民を救った外交官「杉原千畝 SUGIHARA CHIUNE」ら、3人の日本人


2015年10月頃、理髪店で読んだスポーツ新聞に、おおよそ次のような記事がありました。


「第二次世界大戦中、本国の指示に反して難民へのビザを発給し続け、推定6千人の命を救ったと言われる日本人外交官の半生を描いた映画「杉原千畝」の公式試写会がリトアニアであり、主演夫妻を演じた俳優の唐沢寿明さんと小雪さんが出席した‥」


記事は、こんな感じだったように思います。この杉原千畝(すぎはらちうね)氏の勇気ある行いは、かつて聞いた覚え(10年前の読売テレビのドラマだったような、かすかな記憶)があり、杉原千畝氏の役を私の好きな俳優である唐沢寿明さんが演じて映画化されるということで、とても強く印象に残りました。


それで、インターネットでちょこっと調べてみると、映画:終戦70年特別企画「杉原千畝 SUGIHARA CHIUNE」の公開が本日12月5日からだと知って、びっくりしました。映画の公式サイトには、「戦後70年を経て明かされる真実の物語」とありました。


杉原千畝氏(1900~1986)は、リトアニアのカウナス領事館の外交官(1939~1940年)で、迫害から逃れてきた多くのユダヤ系難民に対し、外務省からの指示に反して1940年に数多くのビザ(日本通過査証)を、それこそ命がけで発行し続けて、推定約6千人を救った実在の人物です。救われた人々の「命のビザ」とも言われています。この訓命違反で、帰国後は外務省に居られなくなり、退職を余儀なくされます(戦後なのに)。


実際に杉原氏からビザ発行を受けた難民だった方々が真実(命令に背いて1940年にビザ発行した事実)を知ったのは、29年後の1969年でした。それまでは杉原千畝氏の存在すら、問い合わせても公的には「該当者なし」扱いだったようです。そして、1986年にご逝去されました。


遅すぎましたが、故・杉原千畝氏は2000年になって、ようやく政府・外務省から公式に名誉回復されます(外務大臣の演説で)。私たちは、日米開戦直前に、こんな日本人がいたことを忘れたくないものです。海外では「日本のシンドラー」と呼ばれているそうです。主演の唐沢寿明さんも「教科書に載せてほしい、世界に誇れる人だから」とコメントされたとのことです。


なお、杉原千畝氏にビザ発行してもらったリトアニアから、シベリア鉄道で極東までたどり着くことができた難民を、これまた独断で日本へ渡航させたのが、ウラジオストク領事館の根井三郎氏で、日本に渡航できた難民のビザ延長許可のため尽力したのが小辻節三氏だということも、同時に知ることができ、うれしく思います。この3人に、根井三郎氏に説得された天草丸(ウラジオストク港→敦賀港)の船長さんや、奔走する小辻節三氏に助言した松岡洋右外務大臣も加えると5人でしょうか。


自由にものが言えなかったあの時代に、人道的見地から少なくとも3人の日本人による難民救済のリレーが行われた事実は、同じ日本人として胸に刻んでおきたいと思いました。3人とも、自分の置かれた立場で、自分の良心(人道的見地)に基づき、自分が人として正しいと判断したことを実行されたのでしょう。


杉原千畝氏が生まれ育った岐阜県加茂郡八百津町には、杉原千畝記念館があるので、いつか訪れてみたいものです。前段で「3人の日本人による難民救済のリレー」と書きました。しかし、ポーランドの隣国でバルト海に面したリトアニアと、極東のウラジスオストクと、日本国内という、遠く離れた3人が連絡を取り合った形跡は皆無(不可能)だったことも記しておきます。(2015年12月5日)


映画、観に行ってきました。杉原千畝氏と根井三郎氏は同じ学校の卒業生で、校訓「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして、報いを求めぬよう」を忘れなかった2人は、難民の命を救うことを最優先したのでしょう(自分の立場が悪くなるのを覚悟して)。普段エンディングになるとすぐ退席する私が、エンディングの音楽を聴きながら、キャストやスタッフなどを紹介する画面も最後まで見て、それからしばらくの間も座ったまま余韻に浸ってしまいました。命を救われた人々の子孫は今、世界中で約4万人おられるそうです。もう一度観に行きたいくらい・・・そんな映画でした。【2015年12月9日】


ミャンマーの若者へ支援を続ける今泉清詞さんは元日本兵だったのですね


2015年12月9日(水)朝日新聞朝刊2面の連載記事「ひと」は、「ミャンマーの若者を支援し続ける元日本兵 今泉清詞さん」(新潟県生まれ・埼玉県在住)でした。


その記事によれば、92才の今泉清詞さんは、ビルマ(現ミャンマー)のインパール作戦に従軍した元日本兵でした。そのインパール作戦で戦死した、私の母の兄と、たぶん同じ年ぐらいではないでしょうか。記事の中ほどをぜひ紹介させてください。


『(第1・2段落省略)1989年、「ビルマ奨学会」を立ち上げた。(中略)


きっかけは、慰霊のために現地を訪れたときの体験だ。戦争中は現地の住民らから食料や家畜を徴発(軍が物資を強制的に取り立て)し、田畑を踏み荒らした。石を投げられても仕方ないと覚悟したが、行く先々で一緒に手を合わせ、温かく迎えてくれる人たちがいた。「何としても恩返しを」と心に決めた。


将来を担う若者を支援したいと、日本に来たミャンマー人留学生を毎年10人選び、月4万円を2年間支給した(全額返済不要)。その数は、約20年で計178人。奨学会はその後、現地の学生を支援する形になり、いまも資金援助を続ける。(以下略)』


記事の最後は、今泉清詞さんが最も大切にされている人生訓で結ばれていました。


『かけた情は水に流して、受けた恩は心に刻む』


無念の戦死だったであろう、体が丈夫じゃなかった伯父も、きっと今泉清詞さんが今ミャンマーの若者を支援でしておられることに、拍手をおくっているのではないでしょうか。(2015年12月27日)


関連ページ


元気のもとは「支え合って、つながること」「学校の実働部隊応援団コミュニティ・スクール」「福島の韓国人留学生」・北海道・東京・愛知・京都・大阪・兵庫・沖縄・トルコ・和歌山など

http://sg2takaboo.exblog.jp/24898202/



by takaboo-54p125 | 2016-09-15 04:53 | 保育・教育